レポートの問題 原稿用紙について ヘーゲル&カントスチューデント

 大谷大学の専用のレポート用紙に『ヘーゲル 精神の現象学』の頭蓋論についてのレポートを書いたが、読みが甘いというよりも「この生徒はなにを書いているのか?」という印象を助教授にあたえてしまった。エッセンスは書けたが、これでは大学のそばの書店の読書感想文のほうがはるかに説得力があり優秀である。
 心理学のなかの霊魂(seele)の問題を考察するため今度提出するときはカントの『純粋理性批判』のなかの心理学の問題と『ヘーゲル 精神の現象学』の頭蓋論の問題を絡めてレポートとしてまとめることにしたい。今日いわれている<心理学>の話ではなかなかあつかえない問題なために艱難辛苦している。血の通ったカント哲学にかんしては石川文康先生の著作が噛み砕きにくいカント哲学を人体の心臓のポンプから全身に酸素を送り出すようにやしく<噛み砕きにくいカントの哲学>を解きほぐしている。理性の限界内の霊魂(seele)の問題はユングにおける『心理学と錬金術ユング著とつながっているのではないか、心をよぎったがそうなるとまとめることができないので今回はやめることにした。
ヘーゲル 精神の現象学』頭蓋論とカント『純粋理性批判』の霊魂からみた「こころとからだ」の4000字のレポートが完成したのち『心理学と錬金術ユング著からみた心理学のレポートを書いてみようと考えている。いずれにしても『ヘーゲル 精神の現象学』と『純粋理性批判』からみた「こころとからだの関係性」(心身医学)についてはこれからもぶれないようにしていきたい。
 
「1+1=2」問題に長年くるしみつづけていたが、『純粋理性批判』を読んでその回答が書かれてあったのでそうかなぞなぞのこたえがとけたぞ!とうれしいかぎりだった。フロイトの理論では性の問題となって眉唾ものの考えだったが『純粋理性批判』の前半は苦しいが後半になるにつれてカントのたとえばなしが巧みになってくる。

超越方法論の序文のたとえ話は人生の教訓じみている

 たとえ私たちが天にも達するほどの塔をもくろんだとしても、持ち合わせの材料は私たちが経験という平野で仕事をするのに間に合う広さと、またこの平野を見渡すのに適した高さとを持つ一軒の住宅を建てるのに十分でしかないということ、しかも、塔を建てるという大胆な企ては、言葉の混乱をまつまでもなく、材料の不足から失敗せざるをえなかったとういうことであったが、そうした言葉の混乱は、労働者たちをその計画に関して不可避的に不和にさせて、彼らを全世界に散り散りにさせるをえず、かくして、各自がそれぞれの設計にしたがって別々の建築物を建てたのである。
 いまや私たちにとって問題であるのは、材料とういうよりも、むしろ計画であり、また、確固たる住居を建てるということはなんとしても放棄しえないのにも関わらず、私たちはその住宅を勝手に盲目的に設計して、おそらく私たちの全能力を越え出るおそれのある冒険をあえてしてはならないと警告されているので、私たちに与えられており、同時に私たちの要求に適合している持ち合わせの材料に見合った建築物を計画することである。

純粋理性批判 下 』(pp17)イマヌエル・カント、原祐訳、理想社 

リリパットに「大工道具たくさんあったって椅子ひとつつくれないじゃしょーがねーだろう」という示唆がこの部分とマッチしている。

 大谷大学の専用の原稿用紙と市販の原稿用紙、大学の義務では大谷大学専用の原稿用紙を使用しなければならないが、個人の「意志」としては市販の原稿用紙でドイツ語まじりでレポートを執筆したいという希望があるのだが、前回、西谷啓治ドストエフスキー作品群に関するつながりについてのレポート(のようなもの)を提出したら
No thank you! (笑)(懸賞論文のパンフをみて)君はお金がほしいのかい?
とことわられてしまった。
助教授(ただの学生)に相談してみよう。