『まわる神話構想ノート』よりパート5

 私は倫理学を考えるための物語をつむぎ出していきたい。アリストテレスが『二コマコス倫理学』を書かなかったら、今日の哲学の中の倫理学という学は存在しなかった、と恩師は書いている。日本の哲学のなかでも和辻哲郎の『人間の学としての倫理学』はハイデガーの『存在と時間』を「倫理学」という視点でみつめるときに大いなる光明をもたらす違いない。
 カントの『純粋理性批判』のなかでは霊魂(Seele)や心理学の問題がとりあげられれている。しかし、現代の「心理学」とはかけはなれたものであり、ハイデガーにおける『カントの純粋理性批判現象学的解釈』を参照しながら、理性に基づいた心理学のあり方をまさぐっていきたい。
 また、倫理については奥が深く、私は「自己の身体表象から他者へと伝わる倫理」について考察を進めていきたい。なぜならば、私自身がクラシック・バレエをとおして「美意識」や「美学」について考えるようになったためである。クラシック・バレエは「空間に含まれる情報」や稽古場の「雰囲気」そして自ずからの自己意識が核となっている。ヘーゲルの書いた『精神の現象学』は同じくヘーゲルの書いた『美学』を読む前によむべきだと考察している。『精神の現象学』の「人倫」のなかでクラシック・バレエや音楽などの芸術行為の枠組みとしての倫理を考察した上で、肌理こまやかな倫理としてフッサール現象学を土台としたフランスの現象学者のメルロ=ポンティの『知覚の現象学』で感性教育における「場所」について考えていきたい。
 ヘーゲルの著した『精神の現象学』とフッサール現象学には大きな差異が見受けられる。ヘーゲルはナポレオンが戦争をしている時、お金に困りながら急ぎ脚で『意識の経験の学』すなわち『精神の現象学』を書き著した。読み方によっては「独りのおこさまが大人の階段をのぼっていく道すじ」ヘーゲルの助長なことわざやドイツの当時のロマンティックな<雰囲気>を読み取ることができる。自己意識についての考察は「ただ独りのぼく/わたしがここにいる」ことの自己存在の理由を考察する上で大いなる光明をあたえてくれる。
 後半のいくと「人倫」についての考察が書き加えられ、「なかまとのつきあいかた」や「多数のなかのぼく/わたし」についての考察が宗教的アプローチからもなされている。ヘーゲルの急ぎ脚の思索の力強く、他者の介入をなかなか受け付けない文体で書かれている。原文の意味を細かな注釈でおぎなった金子武蔵氏の翻訳は名訳であり、長谷川宏訳とはまたちがった趣がある。
 また、ヘーゲルの『精神の現象学』のなかで人相術の記述がみられ、そのなかでは当時の解剖学のについての記述がヘーゲル流にかかれてている。これは<動く人体>についての言及がみられないので、<動く人体>についての考察をすすめる場合、フッサール現象学からのアプローチが<最高善>のアプローチだと思われる。また、直接的に<身体>をあつかっているのはフランスの現代思想家であり、哲学者のメルロ=ポンティであるが、彼の著作のなかの『知覚の現象学』はフッサール現象学をの著作群をひもといた上で表された書物なのでフッサール現象学の記述にも注意をはらわなければならない。
 
 フッサールの思想は「科学のいきづまりをどうにかしないといけない」という気概から生まれたものなので人間の意識について<厳密に>記述しているので、読者はある一定の目的ををもって読まなければ、聴き手にとっては有難いけど意味の解らない「お経」に過ぎず、大切なフッサールの声を聴きもらすことになる。その意味でメルロ=ポンティの目的意識は<すさまじい>ものがあり、私はおどろかずにはいられない。
 「おこさまからおとしよりまで」のメルロ=ポンティにおける<あたたかな眼差し>がなければフッサール現象学の著作群をここまで<世間>にひろめることはできなかったに違いない。
 教育の「場所」ではつねに<できる―できない>のはざまで苦しむ生徒と教師がいる。「いつもできたはずのジャンプが急にできなくなった」とか「九九の七の段がいつもすらすらと言えたのに急にできなくなった」とかいうような<自己の意識のはずれ>で<できない現象>が起こってくる。その原因には三つの要因あるとおもわれる。
第一に「環境的な要因」
第二に「心理的な要因」
第三に「身体的な要因」
問題は生徒と自身と教師その原因がわからないという点にある。
 経験豊かな教師は生徒に対してミラクル・マジックのごとく「だまくらかして」生徒を<できる―できない>のはざまから救いの手を差し伸べる。その瞬間に生徒が自ずからの手で教師の手をつかむか否かは、生徒と教師の<あいだ>の信頼関係、すなわち<眼に見えない>レヴェルでの倫理的な信頼関係に頼らざるを得ない。
 この教師と生徒の<あいだ>の倫理的な信頼関係に関しては「哲学思想書の文献学的な学び」と「教育の<場所>における身体的なインスピレーション」を加味して同時平行で考察、研究することが善いと思われる。