『精神の現象学』の頭蓋論の世界をひろげるために

 ヘーゲルの『精神の現象学』の頭蓋論の部分だけではひろがりがうすい。というよりもヘーゲルはおそらく重点をそこにはおいていないそのためにこの頭蓋論を現代の医学にひろげていくには難しいという理由があるとおもわれる。私は三木成夫先生の生命とリズムの思索にうらうちされた解剖学をひもとくことで頭蓋論に「生命の哲学」としての広がりをもたせたいと考えている。そうすることによって田邊元や西谷啓治の思索もとりいれることができ「人間を診る医学」への日本的なひろがりがでてくるとおもわれる。ドイツの哲学を輸入して京都学派の哲学者たちは「日本哲学」として<みずから>思索を転回していった。
 西洋の哲学を日本人に生かすためにはかなり無理があるとおもわれる。翻訳をよんでいても日本人にはなじめない表現や翻訳者も苦渋の訳語の選択ののちに書き上げた喘ぎ声がかすかにカントの『純粋理性批判』の翻訳をした原佑先生やヘーゲルの『精神の現象学』を翻訳した金子武蔵先生、樫山欽四郎先生の翻訳本から聞こえてくる。ヘーゲルの『精神現象学』の大胆な和訳をこころみた長谷川宏先生の訳は流麗で三島由紀夫の『春の雪』を思い起こさずには居られなかった。
 ヘーゲルの『精神の現象学』の考察に関しては金子武蔵訳を基本に注釈書をみて一回目は青ペンで書込みをしたので2回目は赤ペンで書込みをしながら「誠実に」ひもといていくことにする。同時にあおぺんで樫山欽四郎先生と長谷川宏先生の翻訳も青ペンでかきこみをしながら「こころとからだ」を思索の核として読み解いていくことにしたい。
 認識が空中分解しないためにカントの『純粋理性批判』原佑訳もゆっくり着実に「血の通ったカント」を念頭におきながらよみといていきたいと思う。