朗読生活

 私は実家の沼津と大学の存在する京都の6畳の宇宙下宿、「場所」を問わずに書物の朗読をしてストレスを発散している。沼津では妹がいるので注意しなくてはならない。朗読する本はドストエフスキーがおもしろく、人間の魂を善く理解することができる。米川正夫訳は落語調なので、ずぶずぶの江戸っ子節が冴えわたっている。特に『白痴』のなかでムイシュキン公爵がおこさまにいじめをうける乙女の話をとうとうと語りだすシーンでは涙がでたものだった。下宿には『悪霊』、『カラマーゾフの兄弟』があり、どの作品も人間の魂をえぐるような表現に満ちている。そして、どうしようもなく<暗い>。
 沼津の市立図書館で『ドストエフスキー伝』アンリ・トロワイヤ著、村上香住子訳、中央公論社を途中まで読んだことがあるが、ドストエフスキーの乙女好きでこどもずき、そして「てんかん」との戦いなどが善く描かれている。京都の古本屋で発見してしまい<つい>買ってしまった。裏表紙には

アンリ・トロワイヤの描いた『罪と罰』の作者像は、なんと人間的な親しみに満ちていることだろう。これほど彼の偉大さと悲惨さを感動的に伝えてくれる書き手に遭遇したことはなかった。
盗人、聖職者、殺人犯、司法官—善と悪が一代ごとに入りまじった家系に生まれたドストエフスキーは、さながら彼の作品の世界そのものを運命的にになわされているようにさえみえる。
時代の文学的名声を一身に浴び、葬儀には三万の群衆の見送りをうけた文豪の半生は波乱と矛盾に富んだものだった。
処女作『貧しき人々』がベリンスキーに絶賛され、一躍、文壇の寵児となり上流サロンに出入りし、多くの友人や<宿敵>ツルゲーネフと知り合うようになる。しかしサロンの雰囲気に馴染めぬドストエフスキーは、当時の過激社会集団加わり、逮捕され、死刑寸前とういう希有な体験をし、シベリアに流刑される。その地で人妻に恋をし結婚をする。徒刑囚としての体験をもとにした『死の家の記録』で文壇に復帰するが、魅力的な女子大生とヨーロッパに旅立つ。奔放な若い女性との生活に疲れ果て帰国すると、妻は瀕死の床にあった。妻と最愛の兄を失った文豪は、娘のような速記者と再婚し、持病の癲癇の発作に苦しみ、国外放浪をつづけながら憑かれたようにルーレット賭博にのめりこんでいく・・・・・・。
しかし、苦難の道を越えて、『白痴』『悪霊』『未成年』『カラマーゾフの兄弟』などの作品とプーシキン記念式典の講演でロシア最高の作家としての栄光に包まれ、人々に惜しまれつつ世を去る。

 と書かれてある。乙女にモテたのか否かは読んでみないとわからないが、ドストエフスキー本人は「自覚」してはいなかったと現在のところ考察している。今回は下宿において波瀾万丈のドストエフスキーの生涯を人間の魂の観照という観点からこうさつしていきたい。
 チェコユダヤ教を信仰しドイツ語で小説を書いたカフカはミレナさんという愛人がいた。文士には愛人がたくさんいるらしい。『カフカの生涯』池内紀著を朗読してそのカフカの生涯をおしはかっていき、ミレナさんとの<友愛>をこえた愛についてや創作の源泉としていきたい。
 トーマス・マンの『魔の山』は朗読すると眠りをさそうことはまちがいない。黙読しても眠りをさそう。一回生のとき鴨川で岩波文庫版を朗読していたらかなりつかれた。トーマス・マンは詳細な日記をかきのこしており、かなりの分量である。
几帳面な性格がしのばれる。『魔の山』も朗読したあとにトーマス・マンの日記を読んでみたい。
トーマス・マンは『ファウスト博士』とういう音楽小説もかいてある。これをなんとか辞書をひいてよみといて『ファウスト博士』と夏目漱石の『明暗』をカクテルして長編小説を書いていきたい。
 マルセル・プルーストは『失われた時を求めて』は絶対に朗読に適さない本である。これは私の実験によって証明された。<今・ここ>を忘れる可能性が非常に高い。記憶の概念が覆されるのだ。
 ジョルジュ・バタイユの作品群もヘーゲルの芸術性や信仰と関係性が少なからずあるので朗読していきたい。ジョルジュ・バタイユの考えるエロスとはなにか、身体論と関係があるのか考察どころである。
 
 そのむかし本は声にだしてよむものだったらしい・・・・・・お隣に迷惑がかかるかもしれないが、バイオリンをならして注意されたことはない。ただ一回英文を朗読しているときとなりの乙女に
「あら〜英語がきこえるわ」
とささやき声がきこえたことはある。
 
聖書と真宗聖典の朗読はやめることにした。プロテスタント仏教徒多神教では仏も神もよりつかなくなる。
黙読で報恩感謝といこう。