『まわる神話構想ノート』より パート2

 ロマンテック・バレエの最高作品ともよばれるクラシック・バレエ作品の『ジゼル』は日本の能楽と比較することができる。物語はアルブレヒトという貴族がロイスという偽名を使ってジゼルに恋に落ちてしまう。しかし、おなじくジゼルを愛していたヒラリオンという従者が剣の紋章でアルブレヒトの招待を暴露してしまいアルブレヒトの仲間たちに告げ口をしてしまう。
 もともとアルブレヒトはバチルドと婚約していたので、いわば不倫である。ジゼルはアルブレヒトを愛することができなくなってしまったので、自ずから命を絶ってしまう。悲しみにくれるアルブレヒトは十字架の前で祈りをささげて花をそっとおく、すると浄土へ旅立ったはずのジゼルが精霊となって精霊仲間をずんずんとしたがえてやってくる。精霊仲間には女王がおり、名をミルタという。ミルタはヒラリオンを浄土に逝くまで踊らせまくってしまう。朝の光がさすと精霊たちはまた浄土へと旅立っていく。そしてアルブレヒトはジゼルへの愛を魂に残しながら物語は終わりをつげる。
 能楽では翁がでてきたり、浄土へ逝ったはずの人間が幽霊としてあらわれることが多い。特に『源氏物語』や『平家物語』ではその題材が多くもちいられている。ロマンティック・バレエも同様に物語が古典作品の文学作品から題材をもってきたものが多く、シェイク・スピアの『ロミオとジュリエット』やシャルル・ペローの童話の『眠れる森の美女』などが有名である。
 しかし、そのなかでも『ジゼル』は劇中に十字架が登場する演出があるためにキリスト教の国々では演出上でさまざまな問題があらわれてくる。なぜならば、キリスト教の世界では自殺が禁止されているためである。<生きとし生きるものすべてのものに魂がある>浄土へ逝ったとしても魂は不滅である、という考え方が強い。そのためにお墓参りという行為がある。この行為は他者のためではなく、むしろ自己の魂をおちつかせる行為である。ここで「他者のため」と書いたのは「他者のため」と思えば思っただけ、それは本当に「他者のため」とはなりえない場合もあるということである。
 「自己のため」にする行為は一見するとエゴイズムで「他者のため」にならない行為かもしれない。しかし、「自己のため」の行為をなおざりにすると、「他者のため」の行為は成立しない。例えば下宿のゴミがたまったまま恋人を招き入れると恋人はその場所から消えてしまう。なぜならば、実存の危機を<雰囲気>で察知するためである。「あなたがくさるまえにわたしがくさってしまうわ」と。
 能楽クラシック・バレエなどの優れた芸術行為を観ると「自己をみつめる」ことになる。それは優れた芸術行為であればあるほどその可能性はたかくなる。しかし、演技者にとっては「わろきところもまなぶべし」や「ひとのふりみてわがふりなおせ」にもつうじることがあるので演技における「出来栄え」については演技者が観客の心情を考えれば、考えるほど「自己の美意識」や「日常における礼儀作法」を意識して稽古のなかで厳しく「自己をみつめる」ことになる。そのために観客に「自己をみつめる」という身体的な心情が伝承されてくるのであろう。
 

 私はバイオリンという弦楽器を弾いているが、北野武監督作品『座頭市』で登場する姉弟は三味線を弾いている。ふたりの「舞い」は流麗で爪先から指先まで美意識がゆきとどいている。主人公の市は<眼が見えないふり>をしている。なぜならば、「眼が見えないほうが人の心が善くわかる」からだそうだ。
 眼が見えるから「お兄さん、そんなところでそんな風に刀抜いちゃ駄目だよ」と用心棒に言ったのであろう。眼がみえなかった場合、このことは言うことはできないだろう。「場所」を視覚でしっかりと「見つめて」、「そんなところで、そんな風に」という台詞は刀で命を取られるときに言うことはできないためである。
 この映画はきわめて計算や図画を描く才能がや空間を知覚する感性をもった人が脚本や監督を勤めなければできない。例えば、天井の刀が刀の重みで落ちて、床にいる悪人の身体に突き刺さることは計算にもとづいて描かれている。市が刀でろうそくの火を消したり、用心棒が刀をぐるりと一回転させて親分の着物の帯を切り、草鞋をはいた足の親指と人差し指のあいだに刀を突き刺す動きはあらかじめ計算していなければ危険である。
 そして、劇中の幕間のダンス・シーン。たんぼを鍬を使ってリズムをきざみながら耕すシーン、たんぼを草鞋を履いた脚でタップ・ダンスをしてならすシーンは身体知のシンフォニィを奏でおり、しかもユーモア満点である。日常のなかに非日常の動きかたが介入すると物語が成立する。いや、日常を描いただけでもすぐれた物語が成立するのである。
 クライマックス(大団円)の下駄のタップ・ダンスシーンでは人間の心臓のリズムとシンクロナイズされ観る者を歌舞伎の世界概念の「バサラ」あるいは泉鏡花のような「江戸の幻想世界」へといざなっていく。祝祭のあとのオチは江戸前であった。