ヘーゲル『精神の現象学』というsystemの地図 misstion

序文

所論

(本文)
Ⅰ 感覚的確信、或いはこのものと私念

Ⅱ 知覚、或いは物と錯覚

Ⅲ 力と悟性、現象と超感覚的世界

Ⅴ自己自身だという確信の真理
  A.自己意識の自立性と非自立性、主であることと奴であること
  B.自己意識の自由、ストア主義とスケプシス主義と不幸な意識

Ⅴ 理性の確信と真理
 A.観察する理性
 B.理性的な自己意識の己れ自身を介する現実化(行為的理性)
 C.即自的且つ対自的に実在であることを自覚している個体性

Ⅵ 精神
 A.真実な精神 人倫
  a.人倫的世界
  b.人倫的行動
  c.法的状態
 B.自分から疎遠になった精神 教養
  Ⅰ自分から疎遠になった精神の世界
   a.教養とその現実の国
   b.信仰と純粋透見
  Ⅱ啓蒙
   a.啓蒙と迷信との戦い
   b.啓蒙の真理
C. 自分自身を確信している精神 道徳性
  a.道徳的世界観
  b.ずらかし
  c.全的に知ること(良心) 美しい魂 悪とその赦し

Ⅶ 宗教
 A.自然的宗教
 B.芸術宗教
 C.啓示宗教

Ⅷ 絶対的な知ること   

 『精神の現象学』の地図であるが、範囲が広いので論文やレポートを書く場合、自己ができる範囲内で理性にしたがった力で書き上げなくてはならない。「美学」という観点からみると「観察する理性」にしぼられる。眼差しは理性にしたがったものなので普遍性をもつ。しかし宗教の概念が芸術にからんでくると「芸術宗教」の観点もないがしろにすることはできない。
 テーマを完全にかえて「医学」や「臨床心理学」の場合は全体を俯瞰するかたちでよみこまなくてはならない。ある論文ではファッションをテーマにして『精神の現象学』を読むこころみがなされている。
 私は芸術における「美意識」および「医学のわざの伝承」にかかわる問題にかかわってくる。ここにおける「医学のわざの伝承」は広義な意味で危機管理や患者を看取るホスピスケアやターミナルケアの問題も含まれる。

『まわる神話構想ノート』よりパート5

 私は倫理学を考えるための物語をつむぎ出していきたい。アリストテレスが『二コマコス倫理学』を書かなかったら、今日の哲学の中の倫理学という学は存在しなかった、と恩師は書いている。日本の哲学のなかでも和辻哲郎の『人間の学としての倫理学』はハイデガーの『存在と時間』を「倫理学」という視点でみつめるときに大いなる光明をもたらす違いない。
 カントの『純粋理性批判』のなかでは霊魂(Seele)や心理学の問題がとりあげられれている。しかし、現代の「心理学」とはかけはなれたものであり、ハイデガーにおける『カントの純粋理性批判現象学的解釈』を参照しながら、理性に基づいた心理学のあり方をまさぐっていきたい。
 また、倫理については奥が深く、私は「自己の身体表象から他者へと伝わる倫理」について考察を進めていきたい。なぜならば、私自身がクラシック・バレエをとおして「美意識」や「美学」について考えるようになったためである。クラシック・バレエは「空間に含まれる情報」や稽古場の「雰囲気」そして自ずからの自己意識が核となっている。ヘーゲルの書いた『精神の現象学』は同じくヘーゲルの書いた『美学』を読む前によむべきだと考察している。『精神の現象学』の「人倫」のなかでクラシック・バレエや音楽などの芸術行為の枠組みとしての倫理を考察した上で、肌理こまやかな倫理としてフッサール現象学を土台としたフランスの現象学者のメルロ=ポンティの『知覚の現象学』で感性教育における「場所」について考えていきたい。
 ヘーゲルの著した『精神の現象学』とフッサール現象学には大きな差異が見受けられる。ヘーゲルはナポレオンが戦争をしている時、お金に困りながら急ぎ脚で『意識の経験の学』すなわち『精神の現象学』を書き著した。読み方によっては「独りのおこさまが大人の階段をのぼっていく道すじ」ヘーゲルの助長なことわざやドイツの当時のロマンティックな<雰囲気>を読み取ることができる。自己意識についての考察は「ただ独りのぼく/わたしがここにいる」ことの自己存在の理由を考察する上で大いなる光明をあたえてくれる。
 後半のいくと「人倫」についての考察が書き加えられ、「なかまとのつきあいかた」や「多数のなかのぼく/わたし」についての考察が宗教的アプローチからもなされている。ヘーゲルの急ぎ脚の思索の力強く、他者の介入をなかなか受け付けない文体で書かれている。原文の意味を細かな注釈でおぎなった金子武蔵氏の翻訳は名訳であり、長谷川宏訳とはまたちがった趣がある。
 また、ヘーゲルの『精神の現象学』のなかで人相術の記述がみられ、そのなかでは当時の解剖学のについての記述がヘーゲル流にかかれてている。これは<動く人体>についての言及がみられないので、<動く人体>についての考察をすすめる場合、フッサール現象学からのアプローチが<最高善>のアプローチだと思われる。また、直接的に<身体>をあつかっているのはフランスの現代思想家であり、哲学者のメルロ=ポンティであるが、彼の著作のなかの『知覚の現象学』はフッサール現象学をの著作群をひもといた上で表された書物なのでフッサール現象学の記述にも注意をはらわなければならない。
 
 フッサールの思想は「科学のいきづまりをどうにかしないといけない」という気概から生まれたものなので人間の意識について<厳密に>記述しているので、読者はある一定の目的ををもって読まなければ、聴き手にとっては有難いけど意味の解らない「お経」に過ぎず、大切なフッサールの声を聴きもらすことになる。その意味でメルロ=ポンティの目的意識は<すさまじい>ものがあり、私はおどろかずにはいられない。
 「おこさまからおとしよりまで」のメルロ=ポンティにおける<あたたかな眼差し>がなければフッサール現象学の著作群をここまで<世間>にひろめることはできなかったに違いない。
 教育の「場所」ではつねに<できる―できない>のはざまで苦しむ生徒と教師がいる。「いつもできたはずのジャンプが急にできなくなった」とか「九九の七の段がいつもすらすらと言えたのに急にできなくなった」とかいうような<自己の意識のはずれ>で<できない現象>が起こってくる。その原因には三つの要因あるとおもわれる。
第一に「環境的な要因」
第二に「心理的な要因」
第三に「身体的な要因」
問題は生徒と自身と教師その原因がわからないという点にある。
 経験豊かな教師は生徒に対してミラクル・マジックのごとく「だまくらかして」生徒を<できる―できない>のはざまから救いの手を差し伸べる。その瞬間に生徒が自ずからの手で教師の手をつかむか否かは、生徒と教師の<あいだ>の信頼関係、すなわち<眼に見えない>レヴェルでの倫理的な信頼関係に頼らざるを得ない。
 この教師と生徒の<あいだ>の倫理的な信頼関係に関しては「哲学思想書の文献学的な学び」と「教育の<場所>における身体的なインスピレーション」を加味して同時平行で考察、研究することが善いと思われる。

『まわる神話構想ノート』よりパート4

 『まわる神話』は村上春樹氏や泉鏡花氏、そして江國香織女史の文学を源泉として、またクラシック・バレエコンテンポラリー・ダンスの経験から<滲み出た>ものからたちあげていくことにする。
 私はクラシック・バレエコンテンポラリー・ダンスを経験するときに<幽玄>や<もののあはれ>を具現化していくことにする。そして<触発される身体>を目標像としていくことにする。<触発される身体>とは「あれは<ぼく/わたし>でもできそうな簡単な舞いだ」と他者が魂のなかで響くことがねらいである。
 なんともエゴイスティックでニヒルな響き。あくまでも目標像なので具現化することは難しいかもしれない。
 京都学派における考え方については、オーケストラの倫理にきわめて近い。西田幾多郎がコンダクター(指揮者)であり、田辺元がバイオリンを弾いてのコンサートマスター。そして西谷啓治がピアノを弾いている。京都学派はドイツ観念論ヘーゲル哲学、そしてフッサール現象学、またハイデガーの思想を日本風にアレンジしている。
 このことは文学においても同様なことであろう。夏目漱石の文学にはフッサール現象学の影響や<倍音の文学>としての在り方に通じるものがある。人と人との間柄について考察した和辻哲郎もまた夏目漱石の文学を倫理―すなわち人と人との交わりについての問題について考える時に大きな源泉となりうるだろう。
 このことは私が家族の人間関係や幼少期から現在にいたるまで親戚一族の喪の「場所」数多く立ち会った経験に由来している。
 中学から高校にかけて数多くの友人の助けで<今・ここ>に私は存在している。友人たちの助言や眼に見えない助けがなかったら、現在私は大学で哲学することができなかったであろう。
 特に中学時代の三人の親友は<言葉のあいだ>や<いわずもがな>の間柄である。現在、三人はいつ・どこで・何をしているかについては私はまったく関心が無い。なぜならば、私が三人の親友を魂をわかちあった親友とみなしているためである。三人が私をどう思っているかはわからない。
 高校時代はなかなか授業に出られず村上春樹氏のの小説や吉行淳之介氏の小説を読んでいた。体調に波があったために1年間休学して県立図書館で現代思想、特にメルロ=ポンティ木田元氏のエッセイを参考にしながら県立図書館の近くの駅から実家の沼津駅までのあいだにゆっくりと読むことができたことは私の財産である。
 そのうちに「なぜ私が生まれてきたのか」という存在理由について県立図書館から実家にもどるまでのあいだに善く考えるようになった。陸上競技をはじめた理由も「足が速くなりたかった」というだけで、陸上競技をはじめた当初は存在理由の実感にはならなかった。
 私は何をしても存在理由がありありと浮かび上がる程の体験をじっかんできずに、その答えを探すために哲学書や小説を読んでひたすら考えた。時には坐禅を組んで「無」の状態に自己を落とし込んでこともしたが、実感することができなかった。
 
 しかし、たった一度だけ自己の存在理由を実感できた瞬間があった。それは陸上競技仲間との大きな大会の終わったあとの<けだるさ>と<余韻>にひたりながら電車の窓辺にうつる夜とも夕方ともわからない景色をを見ることができたという経験である。そのときの<雰囲気>は筆舌に尽くしがたいものがある。
 ただ、なんとも美しい景色だったことは覚えている。これがおそらく私を<幽玄>や<もののあはれ>の日本の美意識にひきよせられている理由なのかもしれない。なにしろ、私はどっちつかずの性質で大切なことを先延ばしにしたり、叔父のように合理的に物事を計画立てて行うことがきわめて苦行に等しいほど苦手である。そのために数多くの恩師や友人の助けを受けた。
 これからは義務と責任を生成する以前から考察することにして、美学についてこうさつしていくことになるであろう。

『まわる神話構想ノート』よりパート3

 
 映画はおもしろい。いろいろなおもしろさがある。専門家の視点と私のような素人ではフィルムに映し出されている映像のありさまが違うのである。或る人は「映画はひとりで観るものだ」と言い。別の人は「映画はただ観るものであって、そこから人生のなにかしらを得ようとしてはいけない」と言ったそうである。
 
 クラシック・バレエに関する映画はいくつかあるが、体操競技の本質を写した映画が無いことぶ私は戸惑っている。中国で映画化されたものとアメリカで映画化されたものは、中国はあと一歩。アメリカの映画はもう5歩。本質からづれている。しかし、ここでいう本質は私の叔父の影響が大きく、筆であらわすにはまだまだ<時間>が必要だと思われる。
 
 イメージの世界。演技者が演技をする前にわざや振り付けを魂のなかでイメージすることは専門家でもよくあることである。私もクラシック・バレエのレッスンを受けている時、先生に振り付けを伝承される時に一瞬<戸惑い>の時があった。おそらくAの動きかたかあるいはBの動きかたか戸惑ったのだろう。或る専門家はは振り付けの最中に「三昧の境地」に入ったこともあった。振り付けをその人のレヴェルにあったとおりに言葉で表現することは難しいことである。
 
 男性であった私は乙女チームと同様のレッスンで見よう見真似で「見取り稽古」をしてクラシック・バレエの基礎>を学び取ることが出来たと思う。「見取り稽古」という言葉は金子明友氏の体操競技の教本に口をすぱっくして出ている。怪我をしたからといって稽古ができないわけではなく、「見て学ぶ」すなわち「見取り稽古」が大切である、という様々なことが金子明友氏の体操競技の教本(現在ではほぼ全てが絶版)に書かれており、舞踊の関係者にも有益なことが書いてあった。
 
 「身体の動きから表象する美学」について考察する時、様々なアプローチが可能である。

第一に映画という媒体をとおしての学び。フィルムの動きを<意識の流れ>または<体験流>としてとらえ、自己の動きかたに生かしていく。

第二に「場所」に出向き、<雰囲気>から身体知を学び取るという観点。おそらくこの方向がもっとも善い。演技者の動きかたを肌感覚や空気で学ぶことはおこさまにとってもおとしよりにとっても一生の学びになるだろう。

第三に書物からの学び。これは哲学思想系の研究者のやりかたに近く、数多くの文献を本屋や図書館をめぐって探し回り、パラパラと立ち読みして教本として<最高善>と思ったら買う。この感覚をつかみとるためにはかなり時間がかかるし、疲れるのでおすすめできない。

『まわる神話構想ノート』より パート2

 ロマンテック・バレエの最高作品ともよばれるクラシック・バレエ作品の『ジゼル』は日本の能楽と比較することができる。物語はアルブレヒトという貴族がロイスという偽名を使ってジゼルに恋に落ちてしまう。しかし、おなじくジゼルを愛していたヒラリオンという従者が剣の紋章でアルブレヒトの招待を暴露してしまいアルブレヒトの仲間たちに告げ口をしてしまう。
 もともとアルブレヒトはバチルドと婚約していたので、いわば不倫である。ジゼルはアルブレヒトを愛することができなくなってしまったので、自ずから命を絶ってしまう。悲しみにくれるアルブレヒトは十字架の前で祈りをささげて花をそっとおく、すると浄土へ旅立ったはずのジゼルが精霊となって精霊仲間をずんずんとしたがえてやってくる。精霊仲間には女王がおり、名をミルタという。ミルタはヒラリオンを浄土に逝くまで踊らせまくってしまう。朝の光がさすと精霊たちはまた浄土へと旅立っていく。そしてアルブレヒトはジゼルへの愛を魂に残しながら物語は終わりをつげる。
 能楽では翁がでてきたり、浄土へ逝ったはずの人間が幽霊としてあらわれることが多い。特に『源氏物語』や『平家物語』ではその題材が多くもちいられている。ロマンティック・バレエも同様に物語が古典作品の文学作品から題材をもってきたものが多く、シェイク・スピアの『ロミオとジュリエット』やシャルル・ペローの童話の『眠れる森の美女』などが有名である。
 しかし、そのなかでも『ジゼル』は劇中に十字架が登場する演出があるためにキリスト教の国々では演出上でさまざまな問題があらわれてくる。なぜならば、キリスト教の世界では自殺が禁止されているためである。<生きとし生きるものすべてのものに魂がある>浄土へ逝ったとしても魂は不滅である、という考え方が強い。そのためにお墓参りという行為がある。この行為は他者のためではなく、むしろ自己の魂をおちつかせる行為である。ここで「他者のため」と書いたのは「他者のため」と思えば思っただけ、それは本当に「他者のため」とはなりえない場合もあるということである。
 「自己のため」にする行為は一見するとエゴイズムで「他者のため」にならない行為かもしれない。しかし、「自己のため」の行為をなおざりにすると、「他者のため」の行為は成立しない。例えば下宿のゴミがたまったまま恋人を招き入れると恋人はその場所から消えてしまう。なぜならば、実存の危機を<雰囲気>で察知するためである。「あなたがくさるまえにわたしがくさってしまうわ」と。
 能楽クラシック・バレエなどの優れた芸術行為を観ると「自己をみつめる」ことになる。それは優れた芸術行為であればあるほどその可能性はたかくなる。しかし、演技者にとっては「わろきところもまなぶべし」や「ひとのふりみてわがふりなおせ」にもつうじることがあるので演技における「出来栄え」については演技者が観客の心情を考えれば、考えるほど「自己の美意識」や「日常における礼儀作法」を意識して稽古のなかで厳しく「自己をみつめる」ことになる。そのために観客に「自己をみつめる」という身体的な心情が伝承されてくるのであろう。
 

 私はバイオリンという弦楽器を弾いているが、北野武監督作品『座頭市』で登場する姉弟は三味線を弾いている。ふたりの「舞い」は流麗で爪先から指先まで美意識がゆきとどいている。主人公の市は<眼が見えないふり>をしている。なぜならば、「眼が見えないほうが人の心が善くわかる」からだそうだ。
 眼が見えるから「お兄さん、そんなところでそんな風に刀抜いちゃ駄目だよ」と用心棒に言ったのであろう。眼がみえなかった場合、このことは言うことはできないだろう。「場所」を視覚でしっかりと「見つめて」、「そんなところで、そんな風に」という台詞は刀で命を取られるときに言うことはできないためである。
 この映画はきわめて計算や図画を描く才能がや空間を知覚する感性をもった人が脚本や監督を勤めなければできない。例えば、天井の刀が刀の重みで落ちて、床にいる悪人の身体に突き刺さることは計算にもとづいて描かれている。市が刀でろうそくの火を消したり、用心棒が刀をぐるりと一回転させて親分の着物の帯を切り、草鞋をはいた足の親指と人差し指のあいだに刀を突き刺す動きはあらかじめ計算していなければ危険である。
 そして、劇中の幕間のダンス・シーン。たんぼを鍬を使ってリズムをきざみながら耕すシーン、たんぼを草鞋を履いた脚でタップ・ダンスをしてならすシーンは身体知のシンフォニィを奏でおり、しかもユーモア満点である。日常のなかに非日常の動きかたが介入すると物語が成立する。いや、日常を描いただけでもすぐれた物語が成立するのである。
 クライマックス(大団円)の下駄のタップ・ダンスシーンでは人間の心臓のリズムとシンクロナイズされ観る者を歌舞伎の世界概念の「バサラ」あるいは泉鏡花のような「江戸の幻想世界」へといざなっていく。祝祭のあとのオチは江戸前であった。

 

『まわる神話構想ノート』より

 村上春樹氏の『ねじまき鳥クロニクル』をユング心理学の『心理学と宗教』によって私がひもとくことによって新しい神話を書くことにする。そして、ヘーゲル哲学の伝承も取り入れたいと考えているので、ヘーゲルの『精神の現象学』やヘーゲルの生きざまを描いたローゼングランツの『ヘーゲル伝』の本質を私の書く『まわる神話』のなかに取り入れていくことにする。また、カント哲学における霊魂(Seele)を物語りたいので、ハイデガーの講義録の『カント純粋理性批判現象学的解釈』の書き込みやスケッチからわきあがったこと、そしてカントの『純粋理性批判』の書き込みのスケッチを『まわる神話』のなかに取り組んでいくことにする。
 そして、私の関心であるトーマス・マンの『魔の山』の書き方やサナトリウムのあり方を考えながら本文に添えて行きたい。ドストエフスキーの物語よりもトルストイの物語、具体的には『戦争と平和』のなかの物語が神話性を感じたので、その物語の本質を本文のなかにもりこむようにトーマス・マンの書き込みと同じように物語の流れの追うように描いていきたい。
 
 トルストイはロシアの作家であるため物語の時間の流れに関してはミハル・バフチンの著作をひもとくことが需要だと私は感じている。本文にある種の音楽性をもたせるためにはフッサールの『イデーン』で<意識の流れ>や<倍音の文学>を考察しながら、本文に昇華していきたい。
 『まわる神話』を書くにあたっては倫理について考えさせる音楽性をもった作品していきたいので、ヘーゲルの『論理学』を<自己と他者における論理>を考察しながら上記のエッセンスを踏まえたうえで構想をこしらえていこうと考えている。また、倫理は主として『精神の現象学』の人倫についての考察から物語をつむぎだしていきたい。
 上述したトーマス・マンの『魔の山』は読むことをやめることにする。なぜならば、暗いものがあるためである。その暗さは精神衛生上善くない。そのためにヘンリー・ジェイムズの『使者たち』と江國香織さんの作品を音読することにした。そして、禅体験を考えるために道元が著した『正法眼蔵』を音読することにする。『正法眼蔵』の音読に関しては、「心身一如」という観点から、カントの『純粋理性批判』の弁証論の霊魂(Seele)の問題について、東洋思想からのアプローチが可能であると考察したので、『正眼法眼蔵』を音読を行うことにした。

 そして、ヘンリー・ジェイムズの『使者たち』の音読に関してフッサール現象学の<意識の流れ>を文学作品として具現化した作品と感じたので身体性すなわち「声に出して読むこと」によってフッサール現象学の豊かなこうさつを文学作品をとおして考察いくことにする。また、夏目漱石の作品の音読に関しては上述のフッサール現象学と無縁ではなく。文体がフッサール現象学と通じるものがあるとかんじたので音読することにした。

 クラシック・バレエの物語を解釈する事に関しては、ユング心理学の『心理学と錬金術』および『アイオーン』を中心に古典的なバレエの物語の世界を神話として解釈しなおす事でクラシック・バレエの振り付けの広がりもまた出てくると私は感じている。そして、わざの面ではフッサール現象学の『イデーン』に基づいて考察をすすめていきたいが、クラシック・バレリーナおよびクラシック・ダンサーの<動きかた>は単なる現象としてとらえていて善いものか、と疑問が私のなかにわいたのでハイデガーの思索の足跡である講義録のなかの『現象学的研究への入門』および『カント純粋理性批判現象学的解釈』のなかでは古代ギリシアの魂(プシュケー)に言及している多数みられるので、書き込みをしながら考察を進めていきたい。なお、「声と音楽の在り方」についても身体の動きとからめて考察していくつもりである。

 クラシック・バレエは古典の伝統に裏打ちされた舞踊であるが、能楽もまた日本の伝統に裏打ちされた舞踊である。そこには西洋の考え方とは一線を画す「もののあはれ」や「幽玄」という<眼には見えない>宗教的な概念が介入してくる。能楽に関しての考察は道元が著した『正法眼蔵』と世阿弥の芸術論のなかの『風姿花伝』および『至花道』において能楽の極限の芸の道のりが鮮やかにかつ厳しく描かれている。そして、文学作品の中では泉鏡花作品が「幽玄の美」を流麗で幻想的な文体であらわしている。
 私はこれらを身体をとおして音読することによって、クラシック・バレエやタップ・ダンス、そしてバイオリンの芸術行為に反映させていきたい。
 
 これらの「道程」から私が得ることができた<雰囲気>から『まわる神話』の原稿がたちあがってくると思われる。そして『まわる神話』と同様に戯曲作品『体操競技の道程』を書き進めていきたい。この作品は単なる「体操競技はこんな世界ですよ」という物見遊山的な戯曲ではなく。自己と他者がいかにして共同関係をむすんでいくかのドラマである。「倫理という場所」と淡々としかもいつまでも心のなかに残るような戯曲にしていきたい。私は「体操競技」に関しては体系的な知見が無いので金子明友氏の著作である『スポーツ運動学』および『身体知の構造』からかもし出される文体の<雰囲気>から体操競技における身体知を感性的にうけとめて戯曲の創作に反映させていくことにする。
 身体知は<自己の身体を動かすこと>によってしかえることができない。それは自明のことである。クラシック・バレエもバイオリンもタップ・ダンスも体操競技も異なったカテゴリーではあるが、「リズム」や「メロディー」という共通概念がある。
 私はクラシック・バレエおよびタップ・ダンス、バイオリンの修練からえることができる<雰囲気>から文学作品やカントの『純粋理性批判』の霊魂(Seele)とヘーゲルの『精神の現象学』の頭蓋論から考察した「こころとからだ」の問題についての論文や文学作品をノートから脱稿していきたいと思う。

 金子明友氏は加藤澤男氏の恩師であり、運動伝承の研究者である。著作のなかの『スポーツ運動学』では伝統的な西洋哲学の体系をときほぐして教師と生徒との倫理的な間柄を描いているが、金子明友氏は元来、体操競技の研究者であったためにクラシック・バレエについての本格的な研究はおこなっていない。
 ラィプツィヒ身体教育大学の運動学者クルト・マイネル氏は遺稿メモとして感性的な動きかたに関するメモを遺した。金子明友氏はその遺稿をまとめあげ『クルト・マイネル遺稿 動きの感性学』として脱稿した。しかし、そこでも日本人特有の美意識である「もののあはれ」や「幽玄」についての記述はみられない。
 しかし、私自身体験したのは確実に日本のバレエ団においての美意識のなかにおいて「もののあはれ」や「幽玄」の精神が師から弟子へと伝承されている<雰囲気>が<わざ>の伝承の「場所」において存在した。
 
 ヘーゲルにおける『精神の現象学』を精読する上で、身体をとおさなければ<噛み砕けない>問題が多い。それは、ヘーゲル哲学の難解さににもつながっているとおもわれる。
 身体性をとおさなければわからない<開かずの扉>の解明は教育哲学―教室の「場所」でおこっている教師と生徒の問題と生徒と生徒の問題、生徒と親の問題、教師と親の問題の解決の鍵にもなると現時点で考察している。

『正法眼蔵』の導き 信と知の意識の問題  能楽鑑賞から考えたこと

 私は坐禅を組むことが日課になっている。そのために古本屋で『正法眼蔵』をかって音読しながら坐禅をしている。監修者の西尾実さんは能楽の研究者でもある。
西尾実さんここにもいたのね」
と思いながら青線をひきながら音読して坐禅
道元禅師の息吹きと、<雰囲気>を身体的にとりこみ、ヘーゲルの『精神の現象学』で心身問題についてかんがえてみることにした。ヘーゲルの『精神の現象学』のなかの「観察する理性 頭蓋論 人相術」に関する考察は京都学派の哲学や東洋の禅体験をシンクロさせながら考察していくほうが、哲学として成り立つと考えたためである。
 「観察する理性 頭蓋論 人相術」だけをとりだしてカント『純粋理性批判』の霊魂(Seele)や理性にもとづく心理学とむすびつけて心身問題にアプローチしていくには少し工夫がいるので文学作品や芸術鑑賞とくに能楽クラシック・バレエ観照をとおして得られたインスピレーションをノートにまとめそこからレポートとして脱稿していきたい。

 西尾実さんの導きなのか能楽観照することができた。『正法眼蔵』の音読の効果なのかいろいろなインスピレーションを得ることができた。まず、「謡曲」における<声の幽玄な響きの美しさ>。バイオリンの音楽とはまた違った美しさがある。「幽玄」はすこし浄土に逝きそうなきわどさの美しさなので、ヘーゲルの『美学』ではあつかってはいない。東洋のコーラスラインは霊魂(Seele)についてかんがえさせられた。カントにおける霊魂(Seele)というよりも言霊としての魂の問題なので、このアプローチはフッサール現象学を学んだ京都学派の哲学を租借しなくてはならないと感じた。
 そして「舞い」これは極限まで<自己の精神を抑制された静止の動作>が観照者の身体に憑依していた。衣装から垣間見える<膝のまがりぐあい>や<ゆっくりと両手を広げた動作>そして<微妙に震える扇子の動きかた>から積み重ねによる修練がなければこの神経を研ぎ澄ました<雰囲気>がビンビンにつたわってきた。

 そして、なんと着物姿の乙女の謡の響きの艶やかなことであろうか。<眼にもあざやかな響きの美しさ>は独特のエロティシズムさえ観照者にあたえるらしく、感動の「場所」が繰り広げられていた。

 信仰と知の問題にヘーゲルは考察しているが、そのことも頭蓋論をふくめて考察していきたい。「幽玄の美学」については身体をとおして学んでいかなければ、精神がもたないので来年、またクラシック・バレエを再開してみようと思っている。

 そういえば黒澤明さんの映画は能楽のリズムを感じる。実際に『蜘蛛巣城』や『乱』という映画では『マクベス』や『リア王』が下敷きに脚本が描かれている。『蜘蛛巣城』では能楽の「舞い」のシーンがあるので何度か見てみようと思う。
 それから『虎の尾をふむ男たち』では勧進帳がモデルになっており、道化役の榎本健一さんの身体知はすごいと思う。機会があったら、専門家の人にたづねてみよう「バレエダンサーの視点からエノケンさんの動きかたってどうおもいますか」と。

 クラシック・バレエを再開する前に北野武監督『座頭市』のタップ・ダンスシーンをよくみようとかんがえている。いまからバレエダンサーになることはバレエの先生に
「無理や、君はスポーツと思いなさい乙女の動きについていって」
「見取り稽古ですね!」
「そう!」
と言われたのでタップ・ダンスなら身体知やヘーゲルの頭蓋論についてもなにかえられるものがあるかもしれない。
 問題は母をどう説得するか、これである。「バレエはやめて」といわれた。「バイオリンもやめて」といわれた(こっそり続けている)一族は「どこまでつづくだか・・・・・」と非常に懐疑的な眼差しをおくっている。

 クラシック・バレエに関してはまたDVDを買ってしまった。実家では「バレエ禁止令」が実定法としてさだめられているのですべてのDVDをブック・オフに母に売り飛ばされてしまった。実家にいるときは『ク・ラ・ラ』を立ち読みでひそかに稽古。そして洋服箪笥の前で壁倒立をした。壁倒立のしずぎでたたみが手垢で黒く腐ってしまった。

 かつてバレエの先生は
「フランスのバレエはエレガント、ロシアのバレエは力強い」
と説明してくれたことがある。
英国のバレエはどうだろうとおもって
『ジゼル』を購入した。BBCと書いてあるということはまぎれもなく英国のロイヤル・バレエ団のものであろう。
パリ・オペラ座の『ジゼル』を実家でひそかにみてみたが、乙女のマイムが非常に繊細かつ巧みだった。『ジゼル』には十字架が現れるシーンがあり、キリスト教の象徴についてかんがえさせられる。
ちなみに、京都バレエ専門学校の白梅町のスタジオには『ジゼル』の十字架の神秘的な写真がかざられている。
私は見た瞬間にマイスターエックハルトドイツ神秘主義の爆風を感じた。
そのために西谷啓治先生の写真が神秘的にみえたのだろう。
かつて倫理学の恩師に
西谷啓治先生の写真をみたのですけど、神秘的な風貌をしていますよね」
といったら
「そうかぁ」
と言っていた。倫理学の恩師は西谷啓治先生に直接会ったことがあり、
「噺がなげぇんだよな」
とつぶやいていた。
下宿に信州でおこなった講義録があり音読したことがあるが、やはり長かった。
上田閑照先生の著作のなかでも
「西谷啓冶先生の講義は眠りをさそってここちよい」
とかかれていた。
『宗教について』を音読してみよう。
『根源的主体性の哲学』はまだマイスター・エックハルトをそしゃくしきれてないのでよんでもいまいちピンとこない。

 宗教とバレエは遠いようでちかい、音楽もどうようである。洛北文化教室が下宿の眼と鼻のさきに存在してバレエの稽古がおこなわれているらしい。相談してみて見学について考えてみよう。なにか得られるものがあるかもしれない。