『正法眼蔵』の導き 信と知の意識の問題  能楽鑑賞から考えたこと

 私は坐禅を組むことが日課になっている。そのために古本屋で『正法眼蔵』をかって音読しながら坐禅をしている。監修者の西尾実さんは能楽の研究者でもある。
西尾実さんここにもいたのね」
と思いながら青線をひきながら音読して坐禅
道元禅師の息吹きと、<雰囲気>を身体的にとりこみ、ヘーゲルの『精神の現象学』で心身問題についてかんがえてみることにした。ヘーゲルの『精神の現象学』のなかの「観察する理性 頭蓋論 人相術」に関する考察は京都学派の哲学や東洋の禅体験をシンクロさせながら考察していくほうが、哲学として成り立つと考えたためである。
 「観察する理性 頭蓋論 人相術」だけをとりだしてカント『純粋理性批判』の霊魂(Seele)や理性にもとづく心理学とむすびつけて心身問題にアプローチしていくには少し工夫がいるので文学作品や芸術鑑賞とくに能楽クラシック・バレエ観照をとおして得られたインスピレーションをノートにまとめそこからレポートとして脱稿していきたい。

 西尾実さんの導きなのか能楽観照することができた。『正法眼蔵』の音読の効果なのかいろいろなインスピレーションを得ることができた。まず、「謡曲」における<声の幽玄な響きの美しさ>。バイオリンの音楽とはまた違った美しさがある。「幽玄」はすこし浄土に逝きそうなきわどさの美しさなので、ヘーゲルの『美学』ではあつかってはいない。東洋のコーラスラインは霊魂(Seele)についてかんがえさせられた。カントにおける霊魂(Seele)というよりも言霊としての魂の問題なので、このアプローチはフッサール現象学を学んだ京都学派の哲学を租借しなくてはならないと感じた。
 そして「舞い」これは極限まで<自己の精神を抑制された静止の動作>が観照者の身体に憑依していた。衣装から垣間見える<膝のまがりぐあい>や<ゆっくりと両手を広げた動作>そして<微妙に震える扇子の動きかた>から積み重ねによる修練がなければこの神経を研ぎ澄ました<雰囲気>がビンビンにつたわってきた。

 そして、なんと着物姿の乙女の謡の響きの艶やかなことであろうか。<眼にもあざやかな響きの美しさ>は独特のエロティシズムさえ観照者にあたえるらしく、感動の「場所」が繰り広げられていた。

 信仰と知の問題にヘーゲルは考察しているが、そのことも頭蓋論をふくめて考察していきたい。「幽玄の美学」については身体をとおして学んでいかなければ、精神がもたないので来年、またクラシック・バレエを再開してみようと思っている。

 そういえば黒澤明さんの映画は能楽のリズムを感じる。実際に『蜘蛛巣城』や『乱』という映画では『マクベス』や『リア王』が下敷きに脚本が描かれている。『蜘蛛巣城』では能楽の「舞い」のシーンがあるので何度か見てみようと思う。
 それから『虎の尾をふむ男たち』では勧進帳がモデルになっており、道化役の榎本健一さんの身体知はすごいと思う。機会があったら、専門家の人にたづねてみよう「バレエダンサーの視点からエノケンさんの動きかたってどうおもいますか」と。

 クラシック・バレエを再開する前に北野武監督『座頭市』のタップ・ダンスシーンをよくみようとかんがえている。いまからバレエダンサーになることはバレエの先生に
「無理や、君はスポーツと思いなさい乙女の動きについていって」
「見取り稽古ですね!」
「そう!」
と言われたのでタップ・ダンスなら身体知やヘーゲルの頭蓋論についてもなにかえられるものがあるかもしれない。
 問題は母をどう説得するか、これである。「バレエはやめて」といわれた。「バイオリンもやめて」といわれた(こっそり続けている)一族は「どこまでつづくだか・・・・・」と非常に懐疑的な眼差しをおくっている。

 クラシック・バレエに関してはまたDVDを買ってしまった。実家では「バレエ禁止令」が実定法としてさだめられているのですべてのDVDをブック・オフに母に売り飛ばされてしまった。実家にいるときは『ク・ラ・ラ』を立ち読みでひそかに稽古。そして洋服箪笥の前で壁倒立をした。壁倒立のしずぎでたたみが手垢で黒く腐ってしまった。

 かつてバレエの先生は
「フランスのバレエはエレガント、ロシアのバレエは力強い」
と説明してくれたことがある。
英国のバレエはどうだろうとおもって
『ジゼル』を購入した。BBCと書いてあるということはまぎれもなく英国のロイヤル・バレエ団のものであろう。
パリ・オペラ座の『ジゼル』を実家でひそかにみてみたが、乙女のマイムが非常に繊細かつ巧みだった。『ジゼル』には十字架が現れるシーンがあり、キリスト教の象徴についてかんがえさせられる。
ちなみに、京都バレエ専門学校の白梅町のスタジオには『ジゼル』の十字架の神秘的な写真がかざられている。
私は見た瞬間にマイスターエックハルトドイツ神秘主義の爆風を感じた。
そのために西谷啓治先生の写真が神秘的にみえたのだろう。
かつて倫理学の恩師に
西谷啓治先生の写真をみたのですけど、神秘的な風貌をしていますよね」
といったら
「そうかぁ」
と言っていた。倫理学の恩師は西谷啓治先生に直接会ったことがあり、
「噺がなげぇんだよな」
とつぶやいていた。
下宿に信州でおこなった講義録があり音読したことがあるが、やはり長かった。
上田閑照先生の著作のなかでも
「西谷啓冶先生の講義は眠りをさそってここちよい」
とかかれていた。
『宗教について』を音読してみよう。
『根源的主体性の哲学』はまだマイスター・エックハルトをそしゃくしきれてないのでよんでもいまいちピンとこない。

 宗教とバレエは遠いようでちかい、音楽もどうようである。洛北文化教室が下宿の眼と鼻のさきに存在してバレエの稽古がおこなわれているらしい。相談してみて見学について考えてみよう。なにか得られるものがあるかもしれない。