『まわる神話構想ノート』よりパート3

 
 映画はおもしろい。いろいろなおもしろさがある。専門家の視点と私のような素人ではフィルムに映し出されている映像のありさまが違うのである。或る人は「映画はひとりで観るものだ」と言い。別の人は「映画はただ観るものであって、そこから人生のなにかしらを得ようとしてはいけない」と言ったそうである。
 
 クラシック・バレエに関する映画はいくつかあるが、体操競技の本質を写した映画が無いことぶ私は戸惑っている。中国で映画化されたものとアメリカで映画化されたものは、中国はあと一歩。アメリカの映画はもう5歩。本質からづれている。しかし、ここでいう本質は私の叔父の影響が大きく、筆であらわすにはまだまだ<時間>が必要だと思われる。
 
 イメージの世界。演技者が演技をする前にわざや振り付けを魂のなかでイメージすることは専門家でもよくあることである。私もクラシック・バレエのレッスンを受けている時、先生に振り付けを伝承される時に一瞬<戸惑い>の時があった。おそらくAの動きかたかあるいはBの動きかたか戸惑ったのだろう。或る専門家はは振り付けの最中に「三昧の境地」に入ったこともあった。振り付けをその人のレヴェルにあったとおりに言葉で表現することは難しいことである。
 
 男性であった私は乙女チームと同様のレッスンで見よう見真似で「見取り稽古」をしてクラシック・バレエの基礎>を学び取ることが出来たと思う。「見取り稽古」という言葉は金子明友氏の体操競技の教本に口をすぱっくして出ている。怪我をしたからといって稽古ができないわけではなく、「見て学ぶ」すなわち「見取り稽古」が大切である、という様々なことが金子明友氏の体操競技の教本(現在ではほぼ全てが絶版)に書かれており、舞踊の関係者にも有益なことが書いてあった。
 
 「身体の動きから表象する美学」について考察する時、様々なアプローチが可能である。

第一に映画という媒体をとおしての学び。フィルムの動きを<意識の流れ>または<体験流>としてとらえ、自己の動きかたに生かしていく。

第二に「場所」に出向き、<雰囲気>から身体知を学び取るという観点。おそらくこの方向がもっとも善い。演技者の動きかたを肌感覚や空気で学ぶことはおこさまにとってもおとしよりにとっても一生の学びになるだろう。

第三に書物からの学び。これは哲学思想系の研究者のやりかたに近く、数多くの文献を本屋や図書館をめぐって探し回り、パラパラと立ち読みして教本として<最高善>と思ったら買う。この感覚をつかみとるためにはかなり時間がかかるし、疲れるのでおすすめできない。