声と倫理 『教育哲学ノート』より

 文学作品を音読する行為は小説や論文などの文章を書くときに大きな影響をあたえる。作家の心情が自己の身体に<憑依>する。この現象は音楽を聴いたときに自己の霊魂(Seele)が活動力を増すことに近い。作家の心情をつかむためには全集を通読することが一番であるが、<自己の心情>が<他者の心情>と同様でないように作家の書いた文学作品が<自己の心情>に身体的に受け付けられない場合、それは苦行に等しくなる。人間の魂は眼にみえない。そのために芸術作品をとおして霊魂(Seele)についての考察を進めていくしかなさそうである。
自己と他者との間柄のなかの<雰囲気>についても同様に眼にみえない、そのために身体的な感性においてありありと感じ取りながら、伝統的な哲学者が考察した理性や感性について書物をひもとく必要が<最高善>の行為である、と現在のところでは考えている。
 倫理学のなかの<雰囲気>や霊魂(Seele)について考察する上では西洋の哲学以外に凝り固まるだけでは難しいものがある。なぜならば、東洋における哲学においても優れた考察文献が残されているためである。西洋の哲学にのっとって考察する場合でも、われわれは翻訳書を読んで<自己の哲学>を大理石にがつり、がつりと彫りすすめていくように思索を転回していくが、翻訳者の日本語の選び方は、翻訳者自身の人柄や感性、「人生の境涯」が文体に、<雰囲気>としてにじみ出ている。そのために、翻訳者の違いで原書の意味合いが微妙に変化していく。このことは文学作品においても同様の現象であろう。
 <読書という行為>においても<読み手としての自己>と<書き手としての他者>とのコミュニケーションが成立している。そうでなければ、<読書とういう行為>は成立しえない。

バイオリンの出会い

 バイオリンとの出会いは京都の音楽ショップで松田理奈さんがバイオリンの演奏会をひらいていたところにのこのこと私が存在していたためである。はじめて生でバイオリンの音楽を聴いた時は「バイオリンって弾くと鳴るんだ」という素朴な感動だった。そして、松田理奈さんも大学院でカルメンについて研究して留学をして、バイオリンでご飯をたべているのだが、まわりの友達がつぎつぎと就職している状況をみていると不安をかんじずにはいられなかったと本音をぶっちゃけていたので尾崎豊さんみたいにすごいなぁと感じたものだった。尾崎豊さんも「この業界は一部のなかの人間しか生き残れないんだ。だからぼくもいつ消えるかわからないよ」とテレビで友達につぶやいていたのを観て芸術家の厳しさというものをひしひしと感じた。
 芸術家に出会う機会が京都に来て異常に多いのでうれしい反面、その厳しさにも肌感覚でふれているので善いのか悪いのかわかりかねる。
 
 松田里奈さんは演奏をするまえに話をしていたが、やはり緊張していた。まくらの御話がはじめの噺が最後の噺とだぶって回転していた(このことを哲学用語でトートロジーというらしい)。私も緊張しいなのでバイオリンの演奏会に出られるかわからない。
 職人気質な性格で「ひとにみせびらかしたい」という思いがある反面、「これじゃ、駄目だ」というへんな完璧主義にいつもさいなまれている。そのために、ひとつのことに打ち込むことができずにふらふらとクラゲのようにただよっている。この態度は芸術家には「あってはならないこと」であろうがしかし、失敗してもいいからとにかくアクセルをがつんと踏み込むことが芸術家にとってのミッションなのかもしれない。

 バイオリンの奥深さは基礎練習にあるかもしれない。基礎練習に魂をこめないと楽曲を弾くときに音程がづれたり、となりの弦をいっしょに弾いてしまったりする。それにバイオリンは神経質でかつ「はづかしがりやさんな楽器」ですぐに音程がずれるので先生に音程をつねにピアノをもちいて調節しなければならない。下宿で練習していると音程がかなりずれるので「やっかいな奴だな」と腹がたつ。しかし、楽器を弾くのはまぎれもない自己であり、楽器の状態は自己の状態と言っても言いすぎではない。練習をサボりまくるとレッスンの時に基礎練習のときでさえもケアレスミスをしたり、ひどいときにはバイオリンケースからバイオリンを取り出す行為でさえももたつくことがある。

 キラキラ星の基礎楽曲とちょうちょうがすみまたあらたな楽曲に挑むことになった。次の楽曲は4分の2拍子で音域がこれまでとはちがうので強敵である。♪をまともに覚えかつ弾けるような状態になっていなければ所見で弾くことはできない。

 バイオリンの難しさは指を押さえる位置で音程が規定されてしまうことである。すこしでも<気>を抜いて指の押さえる位置がずれると音程もずれる。指を順番にはなすと音程が上がっていき、逆に指を押さえていくと音程は下がっていく。♯がつくともっと複雑になる。指の位置が一個づつずれていき、それにともなって音程も変化していくのである。
 また、弓を弾く腕もしっかりと弾く位置と<きまって>いなければ隣の弦も同時にひいてしまうことになり、へなちょこな音がでる。そして、弓は寝かせなくてはならない。弓は馬の毛でできており、内側をつかて弦をひく。しまうときには弓のお尻のねじを回して弓の馬の毛をたるませてバイオリンのケースに収納する。以上の行為を毎週30分の時間で行い。下宿で隣の人の迷惑にならない時間帯をみはからって個人的に練習している。

 恩師はオカリナをピーヒャラと吹いている。しかし、「バイオリンをやりたくなってきた」とつぶやいた。オカリナの世界は私はしらない。オカリナの世界も想像をこえる難しさとおもしろさと奥深さがあるのであろう。
 ピアノが音程を規定しているのだが、ピアノもまた奥が深く、ショパンは黒鍵のみの練習曲こしらえて、当時の音楽界に衝撃をあたえたらしい。実家にはピアノが存在するが、悲しいことに完全に洗濯物をおく物置の状態になっている。浄土にいるピアノの詩人ショパンがこれをみたら泣くことは間違いないだろう。
 

教会で祈りをささげる

 私は大谷大学というシャクソン系(仏教系)の大学に通っているが、西洋哲学をとおして日本哲学にうちこみたいと考えた。もともと哲学をやりたかった理由は実家の沼津の図書館で西田幾多郎のビデオを観て「こんなすげーおやじがいたんだ、わけのわからないことを言ったり書いたりしているけどなんか凄そう」とおもったためである。もともと私は本を読むことが好きだった。じゃあ、文学部の文学科にすすめばいいじゃないといわれるかもしれないが、家族や一族の在り方についていつも考えていたので哲学科にすすんでみようとおもいたったのである。
 周囲は大反対、亡き父は「飯くえんのかよ!」といわれ、でも「哲学をやりたい」文学ではなくてもっと深く物事を考察してみたいと考えたのである。国語の勉強は本をよく読んでいたので点数がよかった。国語の先生は「趣味の読書と大学受験の勉強はちがいます」といっていたが、国語の偏差値が高かったので大学の門をくぐることがなんとかできた。それまでは、茫漠としたつかみどころのない奇人でよく高校を卒業できたと思う。授業にまったくでていなかったので、「補習だ」と先生にいわれてひたすら課題のプリントをこなした。2年生も3年生も同様で休学もしたので「補習は10時間以上」だったので4時間ぶっとうしで教室に缶詰め状態になった。
 3年生になると慣れてきたので5時間ぶっとおしで勉強することも可能になった。先生は「休憩とっていいからね」といってくれたが、元来職人気質の家系に生まれたので「休憩」という言葉がわれわれの一族には存在しなかった。
 印象にのこっているのは体育の補習でバトミントンのコツをつかむことができた、これである。対戦相手は体育の先生で「もっといきおいをつけて」とか「そうそう、その感じ」と正鵠を射た瞬間に的確な言葉を投げかけてくれたおかげで数時間の補習でバトミントンのコツをつかむことができたのかもしれない。

 京都にはお寺もあるがキリスト教の教会も沢山ある。四条河原町にはカトリックの教会があり、私はキリスト教の本を眺めるためにときどき売店をおとづれる。実家には小ぶりの聖母マリア像が妹が占拠した私の部屋の机に安置してある。
 そろそろヘーゲルやカントの哲学をとおして身体とこころの問題をかんがえてみようとしたときにキリスト教とのかかわりをもたなければ理解しにくいものがあるので教会にお祈りに出かけ、実家に安置されている聖母マリア像よりも若干大きめの聖母マリア像を購入した。こんかい祈ったのは

1.アルバイトをしなくてすみませんたぶんこれかれもしないかもしれません。

2.カントの『純粋理性批判』の弁証論のなかの霊魂の問題とヘーゲルの頭蓋論をくみあわせて「身体とこころ」について考察できますように

3.家族が平穏でありますように

4.将来、小説家としてご飯をたべれますように

5.夜、善く眠れますように

6.フッサール現象学ハイデガーの哲学で「声と音楽の存在」について考察することができますように

7.運動の問題を理性にもとづく観察で考察することができますように

と普遍的な哲学の問題と個人的な問題をからませて祈った。

「声という存在」

音楽にはピアノの音がなくてはならない。バイオリンの音程を規定する時もピアノで<厳密に>規定していく。「声と音楽の存在が身体とこころにいかに影響をあたえるか」ということを考えた時、バイオリンの音を考えながらも、ピアノの音についても考えなければ考察の射程は広がっていかないであろう。
 
 クラシック・バレエにおいてもピアノの伴奏によって<踊り手としての自己>と<教え手としての他者>が<見えないもの倫理>として、一種のコミュニケーションが成立している。私自身、対人関係の問題で<言語で表現できない倫理>を考察するためにバイオリンやクラシック・バレエを修練することになった。このことは後から分かってきたことで、バイオリンもクラシック・バレエも直観で飛び込んでしまったために<教え手としての他者>が眉をひそめていた。

 現在は<声>という現象を倫理学の俎上にのせるためにトルストイ文学やヘンリー・ジェイムズ文学、夏目漱石文学、江國香織文学を下宿で音読している。文学作品は<自己の声の現象>として<あらわせる>ことで、より生き生きとしたものになり、読解力や文学作品の書き手の息づかいを聴くことができる。
 特に上述した文学作品群は「家族」や「一族」の在りかたについて考察する上でも大きな光明をあたえてくれる。哲学書を額にしわを寄せてひもときながら、文学作品の音読をする行為は極めてクレイジーな行為かもしれないが、太宰治も生前は編集者に<自己の文学>を語って口述筆記させ、編集者の度肝ををぬかせたことがあり、さらにその語り終えた<自己の文学作品>の原稿が太宰治の机の下に落ちていたというエピソードがあるので、<他者の書いた文学作品>を音読することは私の創作の上でもなにがしかの影響があらわれてくると思われる。

音読生活

 私は対人関係が苦手で人前でまとまった噺をすることが極めて苦手である。そのために文章を書くことで意志を示してきたが、バイオリンを弾くことや音楽を聴くようになってからは<本の読みかた>が変わってきた。浄土真宗はお経をとなえる『大無量寿経』というありがたいお経である。これは大谷大学聖典である『真宗聖典』にのっている。
時折、不安にさいなまれると唱えるときがあるが、個人的には親鸞聖人の『教行信証』のほうが、人間くささを感じるので『大無量寿経』よりもむしろ『教行信証』のほうが好きである。
 昨今の仏教界は布教が進化しているらしい、オーケストラのお経やお坊さんがバンドを組んでロックンロールを奏でている。声明も独特のリズムがあり、お坊さんの腕の見せ所らしくあちらこちらでライヴがおこなわれている。
 私はロックにはかなりうとくベンチャーズビートルズローリングストーンズしか知らない。予備校時代にこっそりとローリングストーンズのライヴをマーティン・スコセッシ監督が映画化した『シャイン・ア・ライト』を観てこの爺さんたちはなんて元気なんだ!と度肝をぬかれたことがある。しかし、疑問なのははたしてベンチャーズビートルズはロックのカテゴリーに分類されるか、これである。
 ベンチャーズビートルズの職人気質の音楽はクラシック音楽と同等といえる。予備校時代に古いCDショップでビートルズのCDを買ったとき、ドイツ語バージョンの歌がアルバムのなかにもりこまれていたのには驚いたものだった。ドイツでライヴをしたときのものであったのであろう。貴重なCDであったが、母に売られてしまったので今はもう実家にも下宿にも存在しない。
 現在、下宿ではドイツ語とバイオリンの訓練にいそしんでいる。関口存男さんのCDつきドイツ語教本をネイティヴ・スピーカーの音速なみのスピードに四苦八苦しながらシャドウイングして、重箱の隅をつつくような文法規則と発音の規則をたたきこんでいる。関口存男さんのドイツ語教本は「遊び心」がありすぎてときおり笑える。

この「エ」は眠っている男のひとを突然たたいたときに発せられる音です。
女の人が起こすとまた違った「エ」になりますね。
さて本題にもどりましょう・・・・・・

まるで古典落語である。

 『新独英比較文法』はかなりアクロバティックな構成でかつ教養をふかめることができる。アンダーラインをひきながら独学しているが、音読したほうが学習効果がたかい<気>がする。ルターがドイツ語に聖書を翻訳し“DIE BIBLE”の一説や哲学者の警句、英語とドイツ語の相関関係、ゲルマン語とはなにかなど知的好奇心を刺激される。

 文学作品も音読することに意味があるそのむかし『論語』は素読されていた。現在でも四ツ谷湯島聖堂では『論語』の素読がおこなわれている。そして、剣道の素養としても『論語』の素読をおこなっていると剣道の雑誌でみたことがある。
私は夏のくそ暑い日に実家で座布団に正座で『論語岩波文庫素読したことがある。最後までよみおえたときは爽快な気分であった。

 現在、下宿では日本文学では夏目漱石の『虞美人草』、『行人』と泉鏡花集の何冊か、あと『正法眼蔵道元著がある。「声と音楽の存在がこころと身体いかに影響を及ぼすか」について考察するとき「実践しなければわからないだろう」と考え音読している。
海外のものではウィリアム・ジェームズの親戚の作家であるヘンリー・ジェイムズの『使者たち』とヴァージニア・ウルフの評伝を音読している。

 こころの問題と「声と音楽の存在」について考察するときこのふたつのもんだいが今後どのようにまとまっていくのかまったくわからないが、恩師とカウンセラーと助教授と対話をとおして考察していきたい。

 現段階では、現象学とカントの理性にもとずく心理学の考え方にそっていくことで倫理学の問題にも踏み込むことができるとかんがえている。

叔父の写真判定のすごさ

 私の叔父は体操競技の国際審判員を一時やっていた経験があるので、完璧主義には定評がある。体操競技の写真をみせるとながながと論理を転回する。叔父の経験からにじみ出たものなのでまったく反論することができない。『パリ・オペラ座のすべて』という映画を私はおもしろかったので2回映画館で観て、写真付録つきのDVDをかってなんども観た。その心持ちは手塚治虫先生の漫画がのっている特別付録雑誌を買ったときの興奮か新刊の少年ジャンプを買ったときのどきどき感に限りなく近い。
 叔父と一緒に観ることにした。なにかおもしろいことをいうかもしれないとおもったためだ。予想通りDVDを観ている時はまったく無言、2人とも真剣に映画をみている。ときたまおせっかいに私が口をはさむがすぐに反駁される。観終わるとただひとこと
「伝わるものはあった。これは普通の映画じゃない。ちょっと、写真とかある」
(たったった写真をとりにいく)
(写真:跳躍している瞬間の写真をみせる)
「これさぁ、どうおもう」
「・・・・・・・すごい」
「なんか語れらなきゃ駄目だよ、あのなぁこれは写真家がこの瞬間を意図的にねらってカシャンってとってる。そうじゃなかったらこの写真は絶対に撮れない。ほかの写真も同様だ」
(胴体をほかの写真で隠すそしてずらす)
「胴体を隠しているとなにしているかわかんないじゃん。これがプロの世界」
これは叔父の恩師の体操の演技の写真においても同様にかたっていた。

 しかし、叔父はあまりこのことにふれてほしくないらしい。口をすっぱくして「おれの後追いはするな」と浄土真宗の「南無阿弥陀仏」の如く顔をみるたびに言う。文学や哲学関係の話題に方向転換すると「おれはしらない」といって帰る。無愛想の極みである。
一時、叔父は娘にも細君にもきらわれているといっていた。
娘には「変態(メタモルフォーゼ)」といわれているらしい。
叔父のすごさは一番いやなことをピンポイントでついて指摘することである。
「なんで、そういう指摘をするの?」と私が尋ねたら、ただ一言
「身内だから」
友愛の表現なのかわかりかねるがそうかもしれない。

ballet で考えた自己と他者の倫理と家族のあり方

 哲学の領域の倫理学を考える時、それはクラシック・ミュージックというよりもむしろジャズ・ミュージックであり、リアリズムに裏打ちされた古典落語なのかもしれない。文学もそこに流れている時間にはある種の音楽性がある。本質をついた言葉をつむぎだそうという「誠実」な心持ちがあればあるほど、語られる「場所」でのアドリブは鋭い響きを持つようになる。クラシック・ミュージックの中でも現代に進めば進むほどジャズ・ミュージックの影響が色濃く出るようになっている。
 芸術表現としてのクラシック・バレエにおいては物語にそって踊りの振り付けが規定されており、振り付け師(コレオグラファー)の音楽的かつ身体的な感性が踊り手に伝承されることによってクラシック・バレエはその<古典の厳密さ>を守りながらも進化してきた。その伝承の「場所」には生き生きとした<いとなみ>が息づいている。そして、その「場所」には倫理が存在する。<自己の踊り>と<他者の踊り>の関係性である。
 芸術表現としてのクラシック・バレエ陸上競技などのスポーツの倫理、ここでは自己と他者の関係性、マルティン・ブーバーの「我と汝」の関係性が師と弟子のなかに存在している。しかし、スポーツとクラシック・バレエは異質なものである。なぜなら、クラシック・バレエ上述したとおり<芸術表現>であるためである。それはジャズ・ミュージックやクラシック・ミュージックの演奏会を鑑賞して「あれはスポーツ」と言うのと同じことである。その場合、演奏者は首をひねらずにはいられないであろう。「われわれは芸術行為をしているのだ」と。
 この問題は芸術行為を文章表現する難しさにある。学問として哲学の領域の倫理学のなかで考察するにはかなり難しいものがあり、考えるにあたっては当事者すなわちこの問題を<考える人>が行為として実践していなければ考察することはできない。たとえるならば、評論家とスポーツ選手との関係に似ている。スポーツ選手は「なぜこの<わざ>が出来たのか」と言葉で表現することができないためである。「バーッとしてガッとしたら出来ました。ほんとによかったです」「練習どおりにやったらうまく出来ました」など試合の直後のインタビューなどでこのような発言をよくわれわれは耳にする。しかし、これを聴いている他者は師でないかぎり理解することは不可能である。師であっても<どうして出来たのかわからない>という状況もありえる。
 しかし、評論家は経験者であるので専門用語をつかって的確に言葉をつかって他者にむかって選手の状況を表現することが出来る。だが、これも怪しい。それは<専門用語という隠れ蓑>にある。専門用語で逃げることで他者を煙にまくことができるのである。そうするとお茶の間のおこさまはわかるはずがない。たとえるならば、奈良漬けをおこさまの弁当につめこむことであろう。お母さんは残り物の奈良漬けを弁当につめこんで<おかずの隠れ蓑>にするが、おこさまははじめて目の当たりにする異臭をはなつ奈良漬けに困惑し、残す。帰ってきたおこさまは弁当箱を母のもとにおく、そして母は弁当箱をひらいて驚愕する。
「いつも残さず食べるのになぜ!?」と大人の味はおこさまにはわからないのである。

 おこさまは他者であり、母が自己であるとするとおこさまが奈良漬けの味をはやくも覚えてしまうかあるいはおこさまが大人になるまで待つしかない。自己と他者の倫理はこれほどちがうのである。

 スポーツや芸術表現の世界にも同様に実践で示すことでしかわからないことが数多く存在する。しかしそこでも倫理の問題が介入してくる。私が経験したクラシック・バレエに限定すると、<踊り手の自己>と<教え手としての他者>の倫理学上の問題である。いくら<教え手としての他者>が正式なメソッドで<動きかた>を伝授しても<踊り手の自己>がその<動きかた>を「どこ吹くそよ風〜ぼ〜」で了解していなければ、伝承行為は成立しない。
 そして、組織の中の倫理においても集団内で個人的な感情のもつれがあれば、<動きかた>に乱れが出てくることは火を見るよりもあきらかである。

 私は一年と少しクラシック・バレエを稽古していた経験から「場所」における自己と他者の倫理学を考察しはじめている。現在はバイオリンを稽古することで音楽に親しみながら「場所」における自己と他者の倫理学を考察している。音楽に触れることで倫理学を考えるうえで感性的なアプローチができると考えたためである。クラシック・バレエもまた音楽と関係が根深いので出来れば関連付けて考察していきたい。
 このように考えたのは「言葉にできない倫理学上の問題」を考えたいと私自身が痛感したためである。実家の親子喧嘩はすさまじく、阿鼻叫喚の地獄絵図がくりひろげられることもままある。男ひとりでは乙女の3人の喧嘩を仲裁することは困難をきわめる。
 私はなすすべもなく二段ベッドに寝たふりをして<喧嘩の時間>をすぎさることを待つしかない。叔父に携帯電話で助けをもとめても「いつものことだレクリエーションだと思え」と版で押したような助言しかえられない。
妹には「存在自体がホラー」といわれる。

母は「これ以上下宿をきたなくしたら大学をやめてもらうから」とチェックメイトをかけられている。

祖母は働き盛りの40代と錯覚しているのか落ち着きがなく、私ははらはらさせられる。
最近は母にまかせた薬の管理も怪しくなってきている。
「がんばれ、しっかり勉強するんだよ」
と祖母のプレッシャーはゴルバチョフ書記長のペレストロイカよりも影響力がある。

叔父は巧みな論理で私の夢を打ち砕くこともある。しかし、現実にのっとっている性格なのでまったく否定することができない。
学習計画表をつくってそのとおりに遂行することができるが私は学習計画表が「絵に描いた餅」なので遂行できずに学習計画表をゴミ箱に捨てるタイプである。私の人生はすべて0.5秒の直観で決断している。
叔父は
「お前はときどき突拍子もないことをするからつかみどころがない時がある」
私は叔父に関してもわけのわからないところがある。英語の勉強だ、といって自動車のなかで英語の現代歌謡曲をかけて歌詞を自前でコピーしたものが車のなかにおいてある。
「留学の引率してくれたコーディネーターがおいてってくれたんだよ〜ふふ〜ん」
と鼻歌交じりで英語の歌を歌う。英語の歌は英語力が如実に現れるらしく私はまったく歌えなかった。
好きだったカーペンターズの“Yesterday Once More”は別だった。やはり好みは地獄に逝っても煉獄に逝ってもかえられない。
そして極めつけは雨なのに陸上種目の練習を体育館でおこなったことである。
雨なのに校庭を走ることは身に覚えがあるが体育館でハードル種目の練習をしたことはきいたことがなかったので驚愕した。 
 
 対人関係について考えるとき、家族のことをかんがえなくてはならない。或る人は「家族は最も理解できない存在である」
といったらしい。

 大学の授業に出席していないと「まずい」