ballet で考えた自己と他者の倫理と家族のあり方

 哲学の領域の倫理学を考える時、それはクラシック・ミュージックというよりもむしろジャズ・ミュージックであり、リアリズムに裏打ちされた古典落語なのかもしれない。文学もそこに流れている時間にはある種の音楽性がある。本質をついた言葉をつむぎだそうという「誠実」な心持ちがあればあるほど、語られる「場所」でのアドリブは鋭い響きを持つようになる。クラシック・ミュージックの中でも現代に進めば進むほどジャズ・ミュージックの影響が色濃く出るようになっている。
 芸術表現としてのクラシック・バレエにおいては物語にそって踊りの振り付けが規定されており、振り付け師(コレオグラファー)の音楽的かつ身体的な感性が踊り手に伝承されることによってクラシック・バレエはその<古典の厳密さ>を守りながらも進化してきた。その伝承の「場所」には生き生きとした<いとなみ>が息づいている。そして、その「場所」には倫理が存在する。<自己の踊り>と<他者の踊り>の関係性である。
 芸術表現としてのクラシック・バレエ陸上競技などのスポーツの倫理、ここでは自己と他者の関係性、マルティン・ブーバーの「我と汝」の関係性が師と弟子のなかに存在している。しかし、スポーツとクラシック・バレエは異質なものである。なぜなら、クラシック・バレエ上述したとおり<芸術表現>であるためである。それはジャズ・ミュージックやクラシック・ミュージックの演奏会を鑑賞して「あれはスポーツ」と言うのと同じことである。その場合、演奏者は首をひねらずにはいられないであろう。「われわれは芸術行為をしているのだ」と。
 この問題は芸術行為を文章表現する難しさにある。学問として哲学の領域の倫理学のなかで考察するにはかなり難しいものがあり、考えるにあたっては当事者すなわちこの問題を<考える人>が行為として実践していなければ考察することはできない。たとえるならば、評論家とスポーツ選手との関係に似ている。スポーツ選手は「なぜこの<わざ>が出来たのか」と言葉で表現することができないためである。「バーッとしてガッとしたら出来ました。ほんとによかったです」「練習どおりにやったらうまく出来ました」など試合の直後のインタビューなどでこのような発言をよくわれわれは耳にする。しかし、これを聴いている他者は師でないかぎり理解することは不可能である。師であっても<どうして出来たのかわからない>という状況もありえる。
 しかし、評論家は経験者であるので専門用語をつかって的確に言葉をつかって他者にむかって選手の状況を表現することが出来る。だが、これも怪しい。それは<専門用語という隠れ蓑>にある。専門用語で逃げることで他者を煙にまくことができるのである。そうするとお茶の間のおこさまはわかるはずがない。たとえるならば、奈良漬けをおこさまの弁当につめこむことであろう。お母さんは残り物の奈良漬けを弁当につめこんで<おかずの隠れ蓑>にするが、おこさまははじめて目の当たりにする異臭をはなつ奈良漬けに困惑し、残す。帰ってきたおこさまは弁当箱を母のもとにおく、そして母は弁当箱をひらいて驚愕する。
「いつも残さず食べるのになぜ!?」と大人の味はおこさまにはわからないのである。

 おこさまは他者であり、母が自己であるとするとおこさまが奈良漬けの味をはやくも覚えてしまうかあるいはおこさまが大人になるまで待つしかない。自己と他者の倫理はこれほどちがうのである。

 スポーツや芸術表現の世界にも同様に実践で示すことでしかわからないことが数多く存在する。しかしそこでも倫理の問題が介入してくる。私が経験したクラシック・バレエに限定すると、<踊り手の自己>と<教え手としての他者>の倫理学上の問題である。いくら<教え手としての他者>が正式なメソッドで<動きかた>を伝授しても<踊り手の自己>がその<動きかた>を「どこ吹くそよ風〜ぼ〜」で了解していなければ、伝承行為は成立しない。
 そして、組織の中の倫理においても集団内で個人的な感情のもつれがあれば、<動きかた>に乱れが出てくることは火を見るよりもあきらかである。

 私は一年と少しクラシック・バレエを稽古していた経験から「場所」における自己と他者の倫理学を考察しはじめている。現在はバイオリンを稽古することで音楽に親しみながら「場所」における自己と他者の倫理学を考察している。音楽に触れることで倫理学を考えるうえで感性的なアプローチができると考えたためである。クラシック・バレエもまた音楽と関係が根深いので出来れば関連付けて考察していきたい。
 このように考えたのは「言葉にできない倫理学上の問題」を考えたいと私自身が痛感したためである。実家の親子喧嘩はすさまじく、阿鼻叫喚の地獄絵図がくりひろげられることもままある。男ひとりでは乙女の3人の喧嘩を仲裁することは困難をきわめる。
 私はなすすべもなく二段ベッドに寝たふりをして<喧嘩の時間>をすぎさることを待つしかない。叔父に携帯電話で助けをもとめても「いつものことだレクリエーションだと思え」と版で押したような助言しかえられない。
妹には「存在自体がホラー」といわれる。

母は「これ以上下宿をきたなくしたら大学をやめてもらうから」とチェックメイトをかけられている。

祖母は働き盛りの40代と錯覚しているのか落ち着きがなく、私ははらはらさせられる。
最近は母にまかせた薬の管理も怪しくなってきている。
「がんばれ、しっかり勉強するんだよ」
と祖母のプレッシャーはゴルバチョフ書記長のペレストロイカよりも影響力がある。

叔父は巧みな論理で私の夢を打ち砕くこともある。しかし、現実にのっとっている性格なのでまったく否定することができない。
学習計画表をつくってそのとおりに遂行することができるが私は学習計画表が「絵に描いた餅」なので遂行できずに学習計画表をゴミ箱に捨てるタイプである。私の人生はすべて0.5秒の直観で決断している。
叔父は
「お前はときどき突拍子もないことをするからつかみどころがない時がある」
私は叔父に関してもわけのわからないところがある。英語の勉強だ、といって自動車のなかで英語の現代歌謡曲をかけて歌詞を自前でコピーしたものが車のなかにおいてある。
「留学の引率してくれたコーディネーターがおいてってくれたんだよ〜ふふ〜ん」
と鼻歌交じりで英語の歌を歌う。英語の歌は英語力が如実に現れるらしく私はまったく歌えなかった。
好きだったカーペンターズの“Yesterday Once More”は別だった。やはり好みは地獄に逝っても煉獄に逝ってもかえられない。
そして極めつけは雨なのに陸上種目の練習を体育館でおこなったことである。
雨なのに校庭を走ることは身に覚えがあるが体育館でハードル種目の練習をしたことはきいたことがなかったので驚愕した。 
 
 対人関係について考えるとき、家族のことをかんがえなくてはならない。或る人は「家族は最も理解できない存在である」
といったらしい。

 大学の授業に出席していないと「まずい」