教会で祈りをささげる

 私は大谷大学というシャクソン系(仏教系)の大学に通っているが、西洋哲学をとおして日本哲学にうちこみたいと考えた。もともと哲学をやりたかった理由は実家の沼津の図書館で西田幾多郎のビデオを観て「こんなすげーおやじがいたんだ、わけのわからないことを言ったり書いたりしているけどなんか凄そう」とおもったためである。もともと私は本を読むことが好きだった。じゃあ、文学部の文学科にすすめばいいじゃないといわれるかもしれないが、家族や一族の在り方についていつも考えていたので哲学科にすすんでみようとおもいたったのである。
 周囲は大反対、亡き父は「飯くえんのかよ!」といわれ、でも「哲学をやりたい」文学ではなくてもっと深く物事を考察してみたいと考えたのである。国語の勉強は本をよく読んでいたので点数がよかった。国語の先生は「趣味の読書と大学受験の勉強はちがいます」といっていたが、国語の偏差値が高かったので大学の門をくぐることがなんとかできた。それまでは、茫漠としたつかみどころのない奇人でよく高校を卒業できたと思う。授業にまったくでていなかったので、「補習だ」と先生にいわれてひたすら課題のプリントをこなした。2年生も3年生も同様で休学もしたので「補習は10時間以上」だったので4時間ぶっとうしで教室に缶詰め状態になった。
 3年生になると慣れてきたので5時間ぶっとおしで勉強することも可能になった。先生は「休憩とっていいからね」といってくれたが、元来職人気質の家系に生まれたので「休憩」という言葉がわれわれの一族には存在しなかった。
 印象にのこっているのは体育の補習でバトミントンのコツをつかむことができた、これである。対戦相手は体育の先生で「もっといきおいをつけて」とか「そうそう、その感じ」と正鵠を射た瞬間に的確な言葉を投げかけてくれたおかげで数時間の補習でバトミントンのコツをつかむことができたのかもしれない。

 京都にはお寺もあるがキリスト教の教会も沢山ある。四条河原町にはカトリックの教会があり、私はキリスト教の本を眺めるためにときどき売店をおとづれる。実家には小ぶりの聖母マリア像が妹が占拠した私の部屋の机に安置してある。
 そろそろヘーゲルやカントの哲学をとおして身体とこころの問題をかんがえてみようとしたときにキリスト教とのかかわりをもたなければ理解しにくいものがあるので教会にお祈りに出かけ、実家に安置されている聖母マリア像よりも若干大きめの聖母マリア像を購入した。こんかい祈ったのは

1.アルバイトをしなくてすみませんたぶんこれかれもしないかもしれません。

2.カントの『純粋理性批判』の弁証論のなかの霊魂の問題とヘーゲルの頭蓋論をくみあわせて「身体とこころ」について考察できますように

3.家族が平穏でありますように

4.将来、小説家としてご飯をたべれますように

5.夜、善く眠れますように

6.フッサール現象学ハイデガーの哲学で「声と音楽の存在」について考察することができますように

7.運動の問題を理性にもとづく観察で考察することができますように

と普遍的な哲学の問題と個人的な問題をからませて祈った。