叔父の写真判定のすごさ

 私の叔父は体操競技の国際審判員を一時やっていた経験があるので、完璧主義には定評がある。体操競技の写真をみせるとながながと論理を転回する。叔父の経験からにじみ出たものなのでまったく反論することができない。『パリ・オペラ座のすべて』という映画を私はおもしろかったので2回映画館で観て、写真付録つきのDVDをかってなんども観た。その心持ちは手塚治虫先生の漫画がのっている特別付録雑誌を買ったときの興奮か新刊の少年ジャンプを買ったときのどきどき感に限りなく近い。
 叔父と一緒に観ることにした。なにかおもしろいことをいうかもしれないとおもったためだ。予想通りDVDを観ている時はまったく無言、2人とも真剣に映画をみている。ときたまおせっかいに私が口をはさむがすぐに反駁される。観終わるとただひとこと
「伝わるものはあった。これは普通の映画じゃない。ちょっと、写真とかある」
(たったった写真をとりにいく)
(写真:跳躍している瞬間の写真をみせる)
「これさぁ、どうおもう」
「・・・・・・・すごい」
「なんか語れらなきゃ駄目だよ、あのなぁこれは写真家がこの瞬間を意図的にねらってカシャンってとってる。そうじゃなかったらこの写真は絶対に撮れない。ほかの写真も同様だ」
(胴体をほかの写真で隠すそしてずらす)
「胴体を隠しているとなにしているかわかんないじゃん。これがプロの世界」
これは叔父の恩師の体操の演技の写真においても同様にかたっていた。

 しかし、叔父はあまりこのことにふれてほしくないらしい。口をすっぱくして「おれの後追いはするな」と浄土真宗の「南無阿弥陀仏」の如く顔をみるたびに言う。文学や哲学関係の話題に方向転換すると「おれはしらない」といって帰る。無愛想の極みである。
一時、叔父は娘にも細君にもきらわれているといっていた。
娘には「変態(メタモルフォーゼ)」といわれているらしい。
叔父のすごさは一番いやなことをピンポイントでついて指摘することである。
「なんで、そういう指摘をするの?」と私が尋ねたら、ただ一言
「身内だから」
友愛の表現なのかわかりかねるがそうかもしれない。