声と倫理 『教育哲学ノート』より

 文学作品を音読する行為は小説や論文などの文章を書くときに大きな影響をあたえる。作家の心情が自己の身体に<憑依>する。この現象は音楽を聴いたときに自己の霊魂(Seele)が活動力を増すことに近い。作家の心情をつかむためには全集を通読することが一番であるが、<自己の心情>が<他者の心情>と同様でないように作家の書いた文学作品が<自己の心情>に身体的に受け付けられない場合、それは苦行に等しくなる。人間の魂は眼にみえない。そのために芸術作品をとおして霊魂(Seele)についての考察を進めていくしかなさそうである。
自己と他者との間柄のなかの<雰囲気>についても同様に眼にみえない、そのために身体的な感性においてありありと感じ取りながら、伝統的な哲学者が考察した理性や感性について書物をひもとく必要が<最高善>の行為である、と現在のところでは考えている。
 倫理学のなかの<雰囲気>や霊魂(Seele)について考察する上では西洋の哲学以外に凝り固まるだけでは難しいものがある。なぜならば、東洋における哲学においても優れた考察文献が残されているためである。西洋の哲学にのっとって考察する場合でも、われわれは翻訳書を読んで<自己の哲学>を大理石にがつり、がつりと彫りすすめていくように思索を転回していくが、翻訳者の日本語の選び方は、翻訳者自身の人柄や感性、「人生の境涯」が文体に、<雰囲気>としてにじみ出ている。そのために、翻訳者の違いで原書の意味合いが微妙に変化していく。このことは文学作品においても同様の現象であろう。
 <読書という行為>においても<読み手としての自己>と<書き手としての他者>とのコミュニケーションが成立している。そうでなければ、<読書とういう行為>は成立しえない。