バイオリンの出会い

 バイオリンとの出会いは京都の音楽ショップで松田理奈さんがバイオリンの演奏会をひらいていたところにのこのこと私が存在していたためである。はじめて生でバイオリンの音楽を聴いた時は「バイオリンって弾くと鳴るんだ」という素朴な感動だった。そして、松田理奈さんも大学院でカルメンについて研究して留学をして、バイオリンでご飯をたべているのだが、まわりの友達がつぎつぎと就職している状況をみていると不安をかんじずにはいられなかったと本音をぶっちゃけていたので尾崎豊さんみたいにすごいなぁと感じたものだった。尾崎豊さんも「この業界は一部のなかの人間しか生き残れないんだ。だからぼくもいつ消えるかわからないよ」とテレビで友達につぶやいていたのを観て芸術家の厳しさというものをひしひしと感じた。
 芸術家に出会う機会が京都に来て異常に多いのでうれしい反面、その厳しさにも肌感覚でふれているので善いのか悪いのかわかりかねる。
 
 松田里奈さんは演奏をするまえに話をしていたが、やはり緊張していた。まくらの御話がはじめの噺が最後の噺とだぶって回転していた(このことを哲学用語でトートロジーというらしい)。私も緊張しいなのでバイオリンの演奏会に出られるかわからない。
 職人気質な性格で「ひとにみせびらかしたい」という思いがある反面、「これじゃ、駄目だ」というへんな完璧主義にいつもさいなまれている。そのために、ひとつのことに打ち込むことができずにふらふらとクラゲのようにただよっている。この態度は芸術家には「あってはならないこと」であろうがしかし、失敗してもいいからとにかくアクセルをがつんと踏み込むことが芸術家にとってのミッションなのかもしれない。

 バイオリンの奥深さは基礎練習にあるかもしれない。基礎練習に魂をこめないと楽曲を弾くときに音程がづれたり、となりの弦をいっしょに弾いてしまったりする。それにバイオリンは神経質でかつ「はづかしがりやさんな楽器」ですぐに音程がずれるので先生に音程をつねにピアノをもちいて調節しなければならない。下宿で練習していると音程がかなりずれるので「やっかいな奴だな」と腹がたつ。しかし、楽器を弾くのはまぎれもない自己であり、楽器の状態は自己の状態と言っても言いすぎではない。練習をサボりまくるとレッスンの時に基礎練習のときでさえもケアレスミスをしたり、ひどいときにはバイオリンケースからバイオリンを取り出す行為でさえももたつくことがある。

 キラキラ星の基礎楽曲とちょうちょうがすみまたあらたな楽曲に挑むことになった。次の楽曲は4分の2拍子で音域がこれまでとはちがうので強敵である。♪をまともに覚えかつ弾けるような状態になっていなければ所見で弾くことはできない。

 バイオリンの難しさは指を押さえる位置で音程が規定されてしまうことである。すこしでも<気>を抜いて指の押さえる位置がずれると音程もずれる。指を順番にはなすと音程が上がっていき、逆に指を押さえていくと音程は下がっていく。♯がつくともっと複雑になる。指の位置が一個づつずれていき、それにともなって音程も変化していくのである。
 また、弓を弾く腕もしっかりと弾く位置と<きまって>いなければ隣の弦も同時にひいてしまうことになり、へなちょこな音がでる。そして、弓は寝かせなくてはならない。弓は馬の毛でできており、内側をつかて弦をひく。しまうときには弓のお尻のねじを回して弓の馬の毛をたるませてバイオリンのケースに収納する。以上の行為を毎週30分の時間で行い。下宿で隣の人の迷惑にならない時間帯をみはからって個人的に練習している。

 恩師はオカリナをピーヒャラと吹いている。しかし、「バイオリンをやりたくなってきた」とつぶやいた。オカリナの世界は私はしらない。オカリナの世界も想像をこえる難しさとおもしろさと奥深さがあるのであろう。
 ピアノが音程を規定しているのだが、ピアノもまた奥が深く、ショパンは黒鍵のみの練習曲こしらえて、当時の音楽界に衝撃をあたえたらしい。実家にはピアノが存在するが、悲しいことに完全に洗濯物をおく物置の状態になっている。浄土にいるピアノの詩人ショパンがこれをみたら泣くことは間違いないだろう。