「声という存在」

音楽にはピアノの音がなくてはならない。バイオリンの音程を規定する時もピアノで<厳密に>規定していく。「声と音楽の存在が身体とこころにいかに影響をあたえるか」ということを考えた時、バイオリンの音を考えながらも、ピアノの音についても考えなければ考察の射程は広がっていかないであろう。
 
 クラシック・バレエにおいてもピアノの伴奏によって<踊り手としての自己>と<教え手としての他者>が<見えないもの倫理>として、一種のコミュニケーションが成立している。私自身、対人関係の問題で<言語で表現できない倫理>を考察するためにバイオリンやクラシック・バレエを修練することになった。このことは後から分かってきたことで、バイオリンもクラシック・バレエも直観で飛び込んでしまったために<教え手としての他者>が眉をひそめていた。

 現在は<声>という現象を倫理学の俎上にのせるためにトルストイ文学やヘンリー・ジェイムズ文学、夏目漱石文学、江國香織文学を下宿で音読している。文学作品は<自己の声の現象>として<あらわせる>ことで、より生き生きとしたものになり、読解力や文学作品の書き手の息づかいを聴くことができる。
 特に上述した文学作品群は「家族」や「一族」の在りかたについて考察する上でも大きな光明をあたえてくれる。哲学書を額にしわを寄せてひもときながら、文学作品の音読をする行為は極めてクレイジーな行為かもしれないが、太宰治も生前は編集者に<自己の文学>を語って口述筆記させ、編集者の度肝ををぬかせたことがあり、さらにその語り終えた<自己の文学作品>の原稿が太宰治の机の下に落ちていたというエピソードがあるので、<他者の書いた文学作品>を音読することは私の創作の上でもなにがしかの影響があらわれてくると思われる。