アインシュタインとユングとスイス

 相対性理論を提唱したアインシュタインはスイスのチューリッヒにおいて学生時代をすごした。カール・グスタフユングもまたスイスにエノラス会議とよばれる食卓学会に参加していた。ちなみにエノラス会議は現在開かれていない。「存在と時間」についてかんがえてみると私は過去にいきがちである。今・ここに生きていないことがかなり多い。今日が何月何日の何曜日だとそくざにこたえることができないのである。光の速度は宇宙船に放たれた光と地球に存在する光の速度ではおおきくことなるのである。
地上の光が天井に届いたときはまだ宇宙船の光が天井にとどいていないのである。このことは「相対性」と呼ばれる。
そして、わかりやすく説明すると「乙女と過ごす時間は一時間が一分に感じられる」
それぞれ現存在(生命)の感じる時間は「相対性」によって変化していく。<時計の測られる時間>は意味をなさなくなってしまう。
 ヴァイオリンやクラシック・バレエの時間は日常から完全に断絶された時間である。そのために稽古にはげむ人々も多いのではあるまいか。日常のごたごたした人間関係から一歩ひきさがり思索の時間すなはち日常の論理からなる倫理の世界いいかえるならば「世間」から逃避するのである。その「場所」を共有する人間はかなり不可思議な人間関係となると推測される。
 なぜならば、日常から非日常に脚を向ける人間があつまっているので相手同士の生活している日常がきわめてみえにくいために
「このひとは普段どんなことをして生きているのであろうか」
という実存の不確かな不安がかきたてられるのである。その不安は一年から三年たつと膨らんでくるらしい。
 ヴァイオリンやクラシック・バレエの生徒はなんとなくその素性はわかる経済的なある程度のよゆうがなければ継続していくことはかなり難しい。セミ・プロをめざすならばかなりの忍耐力が要求され、教師間と生徒間の人間関係も濃密にならざるをえなくなってくる。そういう段階になるとはじめ提唱した命題が不可思議なことに逆転現象をおこすのである。
 つまり、日常から非日常への逃避のつもりが非日常から日常への逃避に変化してしまうのである。
「あ〜こんな不可思議な生活は耐えられない。ふつ〜の生活にもどりたいわ」
と泣き叫ぶようになるのである。

 この論理は実はヴァイオリンやクラシック・バレエの先生の論理にあてはまることがままある。しかし今の生活に十分満足感がえられているならばこのような実存の不安の論理は起こらない。
「生徒にも人間関係にも恵まれれて何不自由のない私の生活、もう日常にはもどりたくない」
というにちがいない。

 不可思議なことにこのような光景は京都に来てから私の経験からわきおこったイデアである。京都はほかの土地とくらべるとその濃密な日本の時間軸からかなりそれている。私は東京や石川などほかの土地を訪れてその風土の特殊性を実感した。

第一に芸術性が高い。神社仏閣などの風土に育っている人間がおおいためか絵画や音楽がさかんにおこなわれている。美術館や博物館の展示物は一級品が多く、海外の学者もうならせる。

第二に時間がゆっくり流れる。京都は歴史の舞台である。その歴史のなかではぐくまれた環境は時間の概念を鈍磨させる。母が下宿に訪れたときあまりの時間の概念が違い、涙をながした。単に下宿が汚かっただけかもしれないが・・・・・・。

第三に学問が発達している。これは東京の学問とは一線を画している。共同研究のやりやすさは東京の大学と格段に違う。関西の雰囲気は他者と共同で何かことを成すことがはじめからの前提になっているようで、関東の「私の個人主義」のような固体の力をおもんじることよりも関係を重んじる風土がかなり共同研究のやりやすさを促進しているように思われる。これについては私は学者でも大学院生でもないので深く言及することは出来ない。