キリスト教の不可思議な香り

 私は京都の釈尊系の大学に通っているが、ひまなときに『聖書』を善くよむ。いうなればハイブリッドな仏教徒といえるであろう。京都は釈尊系の大学も数多くあるが、キリスト教系の大学も非常に多い。キリスト教系の大学の職員の人間と言葉を交わすとその圧倒的な「雰囲気」にのみこまれそうになることもしばしばである。
 釈尊系の大学の人間はたいていは引っ込み思案がおおく、仏教の思想にかぶれればかぶれるほどその自己の無意識から本当にやりたかったものを引きずり出される宿命があるので熟すとそのすがたからは「老賢者」の香りがほのかにかおってくる。得度をうけるとその香りが最高潮に達するらしい。
 キリスト教系の大学の人間は目的意識が強くまたつよい自我を最初からもっているので
「あたいも、あたいも・・・」
「ぼくも、ぼくも・・・・」
という人間が多いような<気>がする。
 イエス・キリストモーセが目的意識がまったくなく本願他力でうごいていたら誰もついてこないのは当たり前なのかもしれない。キリスト教系の大学の人間は神が命である。神への冒涜行為に関しては警笛をならす。
とくに芸術行為における神は絶対的らしく極めて厳しい。
これは禅宗の厳しさよりももしかすると厳しいのかもしれない。

『聖書』を読むことは西洋哲学の受容に必要だと感じたためである。

あまり宗教的なことを書きすぎるとクレームがきそうなので、やめておく。私は宗教の立場というよりもむしろ倫理学の立場でさまざまなことを考察していきたいのである。