純粋経験とは何か? What is pure experience?

 身体の美意識について考察するとき私はあくまでアリストテレスの視点でみつめていたいが、純粋経験というウィリアム・ジェイムズの概念と西田幾多郎の概念でかんがえていきたいと思う。ここで、<純粋経験>という哲学の概念を哲学辞典の記述からその定義をあきらかにしておきたい。今後の私の体験が純粋経験か否かをかんがえるマイルストーンとなるであろう。
まず『現象学辞典』弘文堂の記述より

純粋経験[(英):pure experience(独)reine Erfahrung]
 主にウィリアム・ジェームズの根本経験論の基本概念として知られる。主観と客観、思想と事物などの二元的区別がそこから二次的に派生する根源的実在を、彼は純粋経験と呼んだ。それは反省作用の概念的カテゴリーに基本材料を提供する「直接な生の流れ」であり、「またどんな何(what)とも決まっていない、ただのあれ(that)である。『心理学原論』で、間接的な「〜についての知識」から区別されて、「なじみの知識」と呼ばれた直接的知識の、哲学展開とみなされる。想像や思考のたぐいの内的経験にも純粋経験が考えられてはいるが、とりわけ見るものとが見ることにおいて一体化している外部知覚が純粋経験の典型とされる。たとえば、眼前に知覚される紙の直接所与が、私の心の歴史の中に組み込まれるか、それとも外的事物の歴史の中にくみこまれるか、つまり中立的な項がどちらの文脈に入るかにしたがって、<紙を見ること>とも<見られた紙>とも解釈される。主客二本の座標軸の交差点に紙の純粋経験が位置するわけである。純粋経験とは、「現象、所与、現前するもの」のような直接的、中立的、前人称的な原-経験をいう。この原-経験の概念解釈たる主観-客観、思想-事物は、したがって、実体的ではなく、機能的な区別でしかなくなる。しかし、ジェームズの純粋経験を、経験がそれによって複合される要素的単位のように解してはならない。それは経験の基礎的な「要素」というより「現在の瞬間野」であり、まだ混沌としてはいるが認識の確実な母胎、あらゆる意味の根源的な地平をなすものだからである。この意味でそれは、マッハやアヴェリウスの実証主義的科学理論より、フッサールの「原信念」としての「生活世界」やメルロポンティの身体によって前反省的に「生きられる」知覚世界の概念のほうに接近する。またそれは、直接的な意識作用としては、ベルグソンが知性から区別した「直観」と、根源的な実在としては、彼の「純粋持続」と軌を一にする。西田幾多郎純粋経験にもジェームズの影響が見られるが、西田の『善の研究』の純粋経験論は、坐禅体験とヘーゲル主義とを合一した独自なもので、主客未分、物我一如の意識体験を真実在と見、神とさえ同一視する形而上学的なりろんである。  (加藤 茂)
文献:W.James,Essays in Radical Empricism,New York,1912

物我一如は心身一如という鈴木大拙の概念にもつうじているかもしれない。ここでウィリアム・ジェームズの人間についても記述することにする。

ジェームズ[William James 1842.1.11-1910.8.26]
アメリカの心理学者、哲学者。父ヘンリーが神秘宗教家、弟ヘンリーは高名な文学者という、天才の家系の出。父の教育方針のもとにウィリアムは少年期からヨーロッパに滞在、国際感覚と広い視野で思索する習慣をやしなった。一時は画家をこころざしたこともあり、将来の志望を転々と変えた。はじめハーヴァード大学で化学、生理学、医学を学んだが、自然科学にあきたらず、やがて心理学に興味を移し、ドイツに渡ってヘルムホルツやヴントに代表される草創期の実験心理学の洗礼を受けた。1872年、母校の心理学の教師に就任し、’75年、世界最初の心理学実験室の一つを創設した。’90年12年間の苦心がみのり、不朽の名著『心理学原理』(Principles of Psycology)を出版した。この書は、現代心理学の基本書であるだけでなく、現象学心理学先駆的業績の一つである。が、もともと実験好きの科学者というより創意に溢れた思索家であった彼は、この書を出版した後、「自然科学的」心理学の可能性に懐疑的になり、1895年以降、哲学や宗教の研究に転じた。とはいえ、具体的な人間性の研究としての広義の心理学は、彼の業績全体を特徴づけてはいる。終始変わらなかった人間の心への強い関心と、偏見を廃して実在に迫る姿勢は、心霊現象の科学的研究にまで彼をかりたてた。総じて、生来の豊かな素質に上記の生活史的諸要因も加わって、彼は多様な諸相をもつ流動的な実在そのものを忠実かつ柔軟にとらえようとする思想を探求し、根本経験論の哲学者になった。・・・・・・(引用者省略)・・・・・・
 総じてジェームズには二つの顔があった。人間の心の自発的、選択的な活動を強調する人間本位主義的な顔と、人間の概念的解釈が加わる以前の実在そのものへの帰還を力説する根本主義的な顔とである。『心理学原理』ではまだ、両面が原初の豊饒な混沌状態にあったが、人間本位主義的側面はプラグマティシズムに代表され、根本主義的側面は純粋経験の哲学に結晶された。1960年代以降、J.M.エディ、J.ワイルド、B.ウィルシャイアらに「原始現象学者」として注目されだしたのは、主に後者のジェームズにほかならない。意識されるがままの具体的でトータルな現象を忠実に記述せんとする『心理学原理』の基本姿勢からして、それはフッサールに「甚大な影響」をあたえた。自ら述懐したように、彼はこの著書のおかげで「心理学主義的立場から離脱する」ことができたのである。「純粋経験への帰還」を説いたジェームズと「事象そのものへ」とよびかけたフッサールとは所与の根源への回帰を力説する<根本主義>という基本点で一致している。両者の細部の表現や文脈には無視しえない相違があるにもかかわらず、両者は次の諸点で著しい類似関係にある。
(1)ジェームズの「意識の流れ」とくに「フリンジ」の説は、フッサールの「地平」の現象学と軌を一にする。
(2)ジェームズの「経験的自我」(me)と「純粋自我」(I)を区別する自我説は、フッサールの「人格的自我」と「現象学的自我」を区別するそれに対応する。
(3)ひとを事物の知覚的現前へ誘導する観念こそが真なる概念だとするジェームズの認識-誘導説は、「意味志向」と「意味充実」との一致に真理をもとめるフッサールの理論と符号する。
(4)最初の「純粋経験」の所与と後にそれを文脈の中で解釈する「後続的経験」を区別するジェームズの前述定的な「自然的な見方」と述定的な「反省的な見方」との区別を想わせる、等々。とりわけ「フリンジ」や「純粋経験」の概念は現象学的思考に尽きることのない豊かな鉱脈を提供する。事実、フッサール以降も、とくにグールヴィッチやシュッツらの現象学的認識論に、その興味深い展開がみられる。が、ジェームズの影響力は、純粋現象学というより意識の現象学に限られていた。
(加藤 茂)

 私の現象学の学びに置いてウィリアム・ジェームズと西田幾多郎の哲学を租借することはかかせないようである。運動現象を理論化するためには現象学をまなんで人間の<意識の流れ>についてかんがえることがひつようじょうけんである。夏休みは対話とジェームズの『純粋経験の哲学』原書Essays in Radical Enpricismを辞書をひきひきひもといて人間の心について探求していきたい。その糧が現象学の学びにも生かされるであろう。