『まわる神話構想ノート』より

 村上春樹氏の『ねじまき鳥クロニクル』をユング心理学の『心理学と宗教』によって私がひもとくことによって新しい神話を書くことにする。そして、ヘーゲル哲学の伝承も取り入れたいと考えているので、ヘーゲルの『精神の現象学』やヘーゲルの生きざまを描いたローゼングランツの『ヘーゲル伝』の本質を私の書く『まわる神話』のなかに取り入れていくことにする。また、カント哲学における霊魂(Seele)を物語りたいので、ハイデガーの講義録の『カント純粋理性批判現象学的解釈』の書き込みやスケッチからわきあがったこと、そしてカントの『純粋理性批判』の書き込みのスケッチを『まわる神話』のなかに取り組んでいくことにする。
 そして、私の関心であるトーマス・マンの『魔の山』の書き方やサナトリウムのあり方を考えながら本文に添えて行きたい。ドストエフスキーの物語よりもトルストイの物語、具体的には『戦争と平和』のなかの物語が神話性を感じたので、その物語の本質を本文のなかにもりこむようにトーマス・マンの書き込みと同じように物語の流れの追うように描いていきたい。
 
 トルストイはロシアの作家であるため物語の時間の流れに関してはミハル・バフチンの著作をひもとくことが需要だと私は感じている。本文にある種の音楽性をもたせるためにはフッサールの『イデーン』で<意識の流れ>や<倍音の文学>を考察しながら、本文に昇華していきたい。
 『まわる神話』を書くにあたっては倫理について考えさせる音楽性をもった作品していきたいので、ヘーゲルの『論理学』を<自己と他者における論理>を考察しながら上記のエッセンスを踏まえたうえで構想をこしらえていこうと考えている。また、倫理は主として『精神の現象学』の人倫についての考察から物語をつむぎだしていきたい。
 上述したトーマス・マンの『魔の山』は読むことをやめることにする。なぜならば、暗いものがあるためである。その暗さは精神衛生上善くない。そのためにヘンリー・ジェイムズの『使者たち』と江國香織さんの作品を音読することにした。そして、禅体験を考えるために道元が著した『正法眼蔵』を音読することにする。『正法眼蔵』の音読に関しては、「心身一如」という観点から、カントの『純粋理性批判』の弁証論の霊魂(Seele)の問題について、東洋思想からのアプローチが可能であると考察したので、『正眼法眼蔵』を音読を行うことにした。

 そして、ヘンリー・ジェイムズの『使者たち』の音読に関してフッサール現象学の<意識の流れ>を文学作品として具現化した作品と感じたので身体性すなわち「声に出して読むこと」によってフッサール現象学の豊かなこうさつを文学作品をとおして考察いくことにする。また、夏目漱石の作品の音読に関しては上述のフッサール現象学と無縁ではなく。文体がフッサール現象学と通じるものがあるとかんじたので音読することにした。

 クラシック・バレエの物語を解釈する事に関しては、ユング心理学の『心理学と錬金術』および『アイオーン』を中心に古典的なバレエの物語の世界を神話として解釈しなおす事でクラシック・バレエの振り付けの広がりもまた出てくると私は感じている。そして、わざの面ではフッサール現象学の『イデーン』に基づいて考察をすすめていきたいが、クラシック・バレリーナおよびクラシック・ダンサーの<動きかた>は単なる現象としてとらえていて善いものか、と疑問が私のなかにわいたのでハイデガーの思索の足跡である講義録のなかの『現象学的研究への入門』および『カント純粋理性批判現象学的解釈』のなかでは古代ギリシアの魂(プシュケー)に言及している多数みられるので、書き込みをしながら考察を進めていきたい。なお、「声と音楽の在り方」についても身体の動きとからめて考察していくつもりである。

 クラシック・バレエは古典の伝統に裏打ちされた舞踊であるが、能楽もまた日本の伝統に裏打ちされた舞踊である。そこには西洋の考え方とは一線を画す「もののあはれ」や「幽玄」という<眼には見えない>宗教的な概念が介入してくる。能楽に関しての考察は道元が著した『正法眼蔵』と世阿弥の芸術論のなかの『風姿花伝』および『至花道』において能楽の極限の芸の道のりが鮮やかにかつ厳しく描かれている。そして、文学作品の中では泉鏡花作品が「幽玄の美」を流麗で幻想的な文体であらわしている。
 私はこれらを身体をとおして音読することによって、クラシック・バレエやタップ・ダンス、そしてバイオリンの芸術行為に反映させていきたい。
 
 これらの「道程」から私が得ることができた<雰囲気>から『まわる神話』の原稿がたちあがってくると思われる。そして『まわる神話』と同様に戯曲作品『体操競技の道程』を書き進めていきたい。この作品は単なる「体操競技はこんな世界ですよ」という物見遊山的な戯曲ではなく。自己と他者がいかにして共同関係をむすんでいくかのドラマである。「倫理という場所」と淡々としかもいつまでも心のなかに残るような戯曲にしていきたい。私は「体操競技」に関しては体系的な知見が無いので金子明友氏の著作である『スポーツ運動学』および『身体知の構造』からかもし出される文体の<雰囲気>から体操競技における身体知を感性的にうけとめて戯曲の創作に反映させていくことにする。
 身体知は<自己の身体を動かすこと>によってしかえることができない。それは自明のことである。クラシック・バレエもバイオリンもタップ・ダンスも体操競技も異なったカテゴリーではあるが、「リズム」や「メロディー」という共通概念がある。
 私はクラシック・バレエおよびタップ・ダンス、バイオリンの修練からえることができる<雰囲気>から文学作品やカントの『純粋理性批判』の霊魂(Seele)とヘーゲルの『精神の現象学』の頭蓋論から考察した「こころとからだ」の問題についての論文や文学作品をノートから脱稿していきたいと思う。

 金子明友氏は加藤澤男氏の恩師であり、運動伝承の研究者である。著作のなかの『スポーツ運動学』では伝統的な西洋哲学の体系をときほぐして教師と生徒との倫理的な間柄を描いているが、金子明友氏は元来、体操競技の研究者であったためにクラシック・バレエについての本格的な研究はおこなっていない。
 ラィプツィヒ身体教育大学の運動学者クルト・マイネル氏は遺稿メモとして感性的な動きかたに関するメモを遺した。金子明友氏はその遺稿をまとめあげ『クルト・マイネル遺稿 動きの感性学』として脱稿した。しかし、そこでも日本人特有の美意識である「もののあはれ」や「幽玄」についての記述はみられない。
 しかし、私自身体験したのは確実に日本のバレエ団においての美意識のなかにおいて「もののあはれ」や「幽玄」の精神が師から弟子へと伝承されている<雰囲気>が<わざ>の伝承の「場所」において存在した。
 
 ヘーゲルにおける『精神の現象学』を精読する上で、身体をとおさなければ<噛み砕けない>問題が多い。それは、ヘーゲル哲学の難解さににもつながっているとおもわれる。
 身体性をとおさなければわからない<開かずの扉>の解明は教育哲学―教室の「場所」でおこっている教師と生徒の問題と生徒と生徒の問題、生徒と親の問題、教師と親の問題の解決の鍵にもなると現時点で考察している。