『めぐりあう時間たち』 川の流れのように時間はすすむ

 私は人間の生き方や人間の生きている時間を考える時にこの映画を観る。作家のヴァージニア・ウルフは『ダロウェイ夫人』を書いている。彼女はひとつの人格として『ダロウェイ夫人』とヴァージニア・ウルフを同時に生きている。これは幸福な人生なのか私にはわからない。作家にとって物語をつむぎ出す事はひとつの人格を自己の中にこしらえることでもある。

 「声なき声に耳をすませる」このことは世間ではなかなか出来ない。日常の雑事に<その時>を殺されてしまうためだ。映画のなかでは3人の乙女が『ダロウェイ夫人』の物語を<なぞり>ながら劇がすすんでいく。
 1人目は『ダロウェイ夫人』を書いたヴァージニア・ウルフ。彼女は上述したとおりに人格が小説の中の人物とごっちゃになったり、「存在しない声」を聴くことができる。彼女の心の中の<深み>は他者になかなか理解されない。そのために小説を書くことで表現しているのかもしれない。

 2人目は心持ちがなかなか自分でコントロールできない乙女、彼女は美しいがゆえに細やかな神経をもっている。一度『ダロウェイ夫人』のように自殺をしようとするが劇中、ヴァージニアの「主人公は死なせない」という判断のもとに「生きる」ことができた。

 彼女の息子は3人目の乙女の恋人である。彼は詩人であり、小説家であるが精神の病に悩まされている。私は介護の問題を考察するときに劇中の彼の存在をないがしろにしてはいけないと感じた。もし、できることならば彼の書いた小説や詩をよんでみたいものだ。しかし、劇はぐるぐるとまわる。彼は自殺してしまう。

 彼の恋人は『ダロウェイ夫人』になぞらえて、パーティーを開く。そのパーティーに彼の母親である2人目の乙女がやってくる。静かな時間が流れていく。時間は流れていくが、ヴァージニア・ウルフは川の中へ入って自らの命を絶ってしまう。なんともやるせないが、時間や家族の在り方について考えさせられる映画は『ゴッド・ファーザー』や『ベンジャミン・バトン 数奇な運命』と同じものだろうが、この映画については川の流れが時の流れをあらわしているように思えてならなかった。