『パピヨン』 極限状況下での友愛

 実家でテレビジョンをみているといろいろな発見がある。それは下宿にテレビジョンが無いためであり、また哲学の啓蒙の息吹きなのかもしれない。特に映画を観ているとその紐解きをえられる場合がある。『パピヨン』という映画は極限の環境に人間がおかれたとしても友愛が成り立つことを学ぶことが疑似体験できる善い映画である。
 主人公のパピヨンは有らぬ疑いでフランス領の離れ小島に投獄される。罰即つきの独房での生活は人間の霊魂を抜き去る凄まじい生活であり、「人間の実存」もまた考察することが出来る。しかし、友人のドガとの友愛を育むことによって脱獄という目的にむかって凄まじいほどの執念で自らの「生ける魂」をそそいでいく。その過程には、おおくの同胞の「死せる魂」の姿を垣間見た思いがあったにちがいない。
「顔色はどうだね・・・・・・」
「うん、いいよ・・・・・・・」
 その翌日、同胞は姿を消してしまう。狭い独房の世界にとって姿を消すということは「生ける魂」が「死せる魂」となる可能性を秘めているということである。しかし、同胞の「生ける魂」を胸に言葉を託された者が「生ける魂」を「死せる魂」にしなければ、同胞の魂は「死せる」ことにはならない・・・・・・・。
 ということをぐだぐだと考えていたら夜中に絶叫してしまい、妹を不安な心持ちにさせてしまった。影響力の強い映画であった。魂は眼にみえないので、映画や歌、音楽からの考察に適していると私はこの映画を観て「悟る」ことができた。