構想ノート

 長編小説『まわる神話』を書く構想ノートと『アリストテレスの日記 Aristoteres essey』を書き始めた。32歳までには10冊から20冊書きためてそこから一冊の本になるように無駄なところを飴をつくるように糖分をばんばんととばしていきたい。内容は本からの内容と経験からにじみでたものを書くことにする。学生生活のなかで相談室をりようしてそこからくみとられる自己の深層世界すなわち普遍的な無意識をかきとめることができたらうれしい。ある占いで私をしらべたら普賢菩薩であった。普賢菩薩は真理をひたすら追求する菩薩である。個人的には智慧を司る文殊菩薩でありたかった。
 釈迦の十弟子のなかでは私は阿難であろう。記憶力がすぐれているために「悟り」を開くことにどの弟子よりもおそくなった。

年間常に釈迦に随従し、弟子1250人の中、「多聞(たもん)第一」と讃えられる著名な弟子。「釈迦の説法を最も多く聞いていた」と云う訳である。釈迦の従弟にして提婆達多の弟。

釈迦が成道した日の未明、父の浄飯王は息子の上首尾をいち早く感得していた。天晴れでかしたと一人大喜びをしていた丁度その時、弟の斛飯の第二子が誕生したとの知らせが舞い込んだ。長兄浄飯はその報に触れると、浮かれ気分のままに「今日はめでたい日だから『めでたい(「阿難」)』と云う名を付けてやれ」と言い含めた。斯くして彼は阿難と名付けられたのである。

「名は体を表す」とは良く言ったもので、彼は生まれつきの美男子であり、見る者の目を大いに楽しませて「愛で」られる。特に女性の心を射抜きまくること甚だしく、為に釈迦は阿難に限っては着衣を広めに取ることを許さざるを得なかった。肌の露出を少なくする為である。

本人にとっては甚だ不本意なことではあったが、釈迦の寿命を縮めたのは阿難の言動が大きく関わっている。

釈迦80歳の夏安居(げあんご)の時、折悪しく諸国は飢饉に喘いでいた。こんな時に大人数で1カ所に固まっていては共倒れになってしまう。そこで、釈迦は一同に一時解散を号令し、自分は阿難と2人で過ごすことにした。ところが2人きりになったその時に釈迦の全身に激痛が走る。さすがに釈迦も弱気になり、自分をポンコツ車に譬えて限界が近いことを漏らす。

しかし、少し楽になると心変わりして一転強気になる。「各種の超能力を修得した者は、1劫くらい死なないでいられるのだ」等と言い出し、釈迦は阿難の反応を待った。ところがこの時の阿難は正に“魔”が差していた。阿難が「それじゃ1劫経つまで死なないで下さい」と縋り付いてくるのを期待して、釈迦は再三同じことを繰り返すのだが、そんな釈迦を阿難は黙って無視したままである。遂に釈迦は諦めた。後で阿難は激しく後悔するが後の祭りである。こうして釈迦の寿命は80年と決定したのであった。

阿難は釈迦入滅の時にもまだ阿羅漢の悟りが開けておらず、修行を卒業できないでいた。一説には「多聞第一」と成れたその智恵が仇になったと言い、また一説には釈迦の従者であり続けて「多聞第一」と成る為にわざと修行をサボったとも伝えられる。

理由は何にせよこれが災いし、釈迦の没後、「結集(けつじゅう)」と云う釈迦一代の教えを収集・確認する集会が開かれた折り、その席上で司会者の摩訶迦葉により出席者1000人中、唯1人「阿羅漢(あらかん:修行を修了した者)」でないことを暴露されて大恥をかかされる。更に、女性に出家の道を開いたことや、釈迦の寿命を縮めたことや、釈迦のペニスを女性に見せびらかしたこと等、6種の罪状を指弾されて大衆の面前で総括されるなど、悲惨な目に遭う。

彼はそれでも頑張ってすぐに阿羅漢の悟りを開き、「結集」の場では経典の回想を担当して余人の及ばない貢献をした。経典を繙くと、冒頭は必ずと言って良いほど「如是我聞(にょぜがもん)」或いは「我聞如是(がもんにょぜ)」と始まるが、この「我」とは阿難のことであると伝えられている。

ところが、最高の生き証人である阿難の地位もやがて蔑ろにされるようになる。とある林で彼は出家の少年に出会った。少年は読経をしているのだが、よく聞いてみると何やら無茶苦茶なことを言っている。そこで阿難は注意して指導するのだが、少年はそれを聞き入れないどころか、何と逆に「老い耄れた阿難の方こそ間違っている」等と言い出す始末。阿難はすっかり呆れ果てて言葉も無くその場を去った。教化の情熱を失った彼は死を決意する。そして、ガンジス川の真ん中で衆人環視の下、神通力で起こした炎に自らを包んで果てたのであった。

さて、声聞の弟子である阿難もやはり将来は成仏するとされる。釈迦が予言するところによれば、「山海慧自在通王如来」と云う仏に成り、「常立勝幡」と云う国土を建設すると云うことである。

http://www.pandaemonium.net/menu/devil/Anan.html)より

 我が大学では私は阿難とささやかれている。おそらく恩師に人間学の授業で阿南が<指の首飾りを作った話>をとうとうとかたってしまったためだろう。