音楽を考える

 私は音楽は現象なのかどうか長年疑問におもってきた。フランスの現代思想家のジャック・デリダは『声と現象』のなかで<声>についてその問いについて誠実に思索をつんでいる。実家の沼津にはハイデガーの講義録である『現象学的入門への研究』がありそれをもとに<音楽と声>の関係性に思索していきたい。クラシック・バレエは音楽がつきものである。オペラや能楽にも朗々とした合唱が響きわたっている。
 音楽療法のチラシがCDショップにはいっており、興味をそそがれた。音楽とのつきあいはかなりながい。亡き父は無類のオーディオ付きで真空管アンプをこしらえたり、機械をいじくりまわすことが大好きだった。私はレコードのほこりを薬品でふくのが中学生のころからのひそかな「儀式」だった。なぜ「儀式」かというと父は
「これは儀式なんだ」
としきりに私に刷り込ませたためである。
 不可思議なことにレコードのほこりとりをしているときだけはじめて音楽の成績が5になった。しかし、レコードに見向きもしなくなったとたんに音楽の成績が3になったので、
「まさか関係があるのではなかろうか?」
と疑問におもったことがある。

 中学時代の音楽の先生は体育の先生のようで足上げをした状態で「校歌」を最後まで歌うという不可思議な伝統が存在した。音楽室は冷暖房の設備がなかったので貧血で倒れる友達がおおくいた。現在はあたらしくなり冷暖房が完備されているらしい。
音楽の先生の疑問は何故音楽にくわしいのに伴奏を人にまかせるのか、これである。
教育的な配慮なのか、ただめんどうなだけなのかわかりかねる。

 私は楽譜をよむことが苦手である。現在でもバイオリンの開放弦の音符をたよりにシステマティックに暗記するという「わざ」でゆっくり着実に楽曲を奏でている。ハイデガーヘーゲルの『論理学』を読んでいればなんとかなると考えていたがそれはたんなる自己暗示にすぎなかった。そんな阿呆なバイオリニストはかつて指揮者になったことがある。

 指揮者は手を振り振りしてれば、まわりのひとが勝手に音楽をならすと勘違いしていたために友達に怒声と罵声をあびた。ピアノをならっている同級生の女の子が合唱や合奏で
「ちがう、ちがう」
とひそかに指揮してくれたのでそれにあわせて手をふった。
 指揮で難しいのは音楽に<つられて>自己の腕のうごきがにぶってしまうことである。これは「あってはならないこと」である。指揮者が音楽を司るのに、音楽が指揮者を司るのでは主客逆転の現象になってしまう。

 カーペンターズの音楽は「アイスクリームにガムシロップをかけたような音楽」でなんでこんなおんがくなんだろうと疑問におもったが、多重録音といって
あ〜とコーラスを二重三重に録音しているためにひとりで歌っていてもコーラスラインのようにきこえることを
カーペンターズのドキュメンタリーで学んだ。しかし、カーペンターズのカレンさんの歌声とドラムのテクニックは神様からの贈り物であることは間違いない。兄貴はどうだろうといつもかんがえてしまう。兄弟げんかをしなかったのだろうか?

 音楽の楽典にかんしてはカントの『純粋理性批判』や概念規定はライプニッツハイデガーの『論理学』で考察し、声の存在に関してはハイデガーの講義録の『現象学的研究の入門』で考察していくことにする。