自己と他者の「論理」 『教育哲学ノート』より

 哲学書を書き写すという行為は身体をとおして哲学の営みを学ぶことに通じると思われる。しかし、最後までその営みが完了することは極めて難しい。なぜならば、他者の「論理」で表現された文章であるために自己の思い通りにはいかないためである。しかし、自己の「論理」のなかに他者の「論理」を生かすという点では学習の営みとして大きく貢献するであろう。自己の論理のなかに他者の論理が介入するとそれは倫理の介入となりえる。教育の「場所」では他者から自己へ、自己から他者への「論理」のなかに介入する光景がみられる。この「論理」は言葉以外の所作をふくめた「論理」なので読みとろうとすればするほどその「論理」の深さは深くなる。
 そのことをのちのちに表現するとそれは「コミュニケーションとして成立することができた」ということになるが、「論理」の発信者が受信者に、受信者が発信者に「意味づけ」したとおりに受け取られることは極めて稀である。
 そのことは、相互の信頼関係の深さにもよるし、顔を付き合わせていた長さにもよるのでここのところは大変難しい問題である。