音楽と言葉 『教育哲学ノート』より

 言葉は「書くこと」と声として、また「発すること」として発達してきた。今日、残されている聖書や文学、哲学思想は言葉を「書くこと」によって人々に伝承されたものである。いずれにしても身体やこころの<うごめき>があらわれていることは間違いない。人間には自己を律する理性と、物事を感じ取る感性と、物事を<噛み砕く>悟性という性質がある。音楽のなかの歌の声は現象としてCDに残されている。しかし、聴く人々はその現象をこれまで生きてきた自己の<生きざま>と照らし合わせて解釈するので、単純な物理学的な現象と考えることはできないであろう。楽器で演奏される音楽もまた同様である。音符で書き記された楽譜を演奏者は自己の意識のなかで解釈し<みづから>の手で演奏する。そこには伝承される<わざ>がある。
 対話の重要性はその言葉が交わされる声の音楽に耳そばだてて聴き、<自己のできる限りの範囲内>において解釈することができる。<自己のできる限利の範囲内>と書いたのは人間の能力の範囲は時間に支配されているために<今・ここ>で能力を発揮することは限られているためである。例えば練習していない楽曲の初見で奏でることはよほど音符における感覚を磨いておかなければできることではない。合奏においても<巧みな演奏者>に自己の演奏が<つられて>しまい、自己の演奏を見失うことが筆者の経験では何度もあった。おそらくこれからも経験していくことだろう。
 文学作品のなかにも文学を創造した作家の奏でる音楽が流れている。ドストエフスキートルストイ、日本では夏目漱石の作品においてかなりダイナミックでかつ「誠実」な音楽が流れている。その音楽は新約聖書の根底に流れている音楽にきわめて近い。新約聖書ではイエス・キリストの弟子のマタイ、ルカ、ヨハネなどが福音書と黙示録を書き残している。夏目漱石ドストエフスキートルストイの作品中の登場人物の交響曲を聴くには新約聖書を紐解いてみるとその音楽の素晴らしさに胸を躍らせることができると筆者の経験では考察することができるが、仏教の思想と音楽も考慮にいれなければならないので話は<もつれて>くる。
 医学の「場所」を考察したとき、そこでの「場所」は宗教的な「厳しさ」がなければ、治療行為は<最高善の行為>とはならない。なぜならば、人間の実存がかかっており、人間の尊厳もまたかかっているためである。そこでの「場所」を奏でられる音楽は極めて「静寂」なものを内なる治療行為のなかにひそませておかねばならないであろう。