映画『瞳の奥の秘密』 理性の限界かあるいは正義の名のもとに

 私は小説を書いているが、この映画は小説内の映画でもあるし映画内の小説でもある。人間の徳のなかの正義の限界と理性の限界は限られている。そのなかでどのように行為するか否かが問題になるのだが、この映画の主人公は両者ともに忠実だった。時間が流れても意識がながれても人間関係はかわらないことをこの映画はおしえてくれた。司法はまた人間なかの限られた理性の行為に基づいて行使される。法はかえることができるが、人間の内なる理性と徳のなかの正義はかえることができない。そのために法と人間の名誉や権力などの欲望の概念によって記憶の中にある種の<空虚>がのこってしまう。
 主人公は<空虚>をなんとかとりもどそうと理性にしたがって行為した。その行為は美的な行為にあたり、友愛が普遍性をおびて時の流れをへてもかわることがなかった。アホーマヌケーバカであっても理性にしたがって生きることができる。ちょっとした行為が<自己>から<他者>へと伝承され正義をまもろうとする。
 物書きが動くととんでもないことになるが、どうしてこんなにとんでもないことになるのかそれは想像力がみちあふれているためであろう。根深い問題を執拗においつづける姿は人間関係と同様になっている。友が死んでも喪をわすれずに。