ながら学習

 私はたいてい哲学書を読む時は映画をみ<ながら>、音楽をきき<ながら>よむことが大きい。人間は2つのことを同時進行でやるとどちらかが「ええかげん」になるが、ドラマ『虹子の冒険』で主人公の虹子が<二つのことを同時にできる>ことから銀座の頂点に君臨したことを学んで二つのことを同時にやってみることにした。しかし、映画にも哲学書にも相性があるようでフッサール哲学書は音楽映画や医療映画に適しているが、ほかの恋愛映画には適さない。カントは音楽映画にしか適さない。ヘーゲルは万能薬であるが、助長な感じになる。
 クラシック音楽はまったく<ながら>に適さない。「あれかーこれか」になってしまう。楽器をやっているとそうなるのだろう。妹はフルートをかつてやっていたが、とある本にフルートを吹く人間はプライドが高いと書いてあった。バイオリンは縁の下の力持ち的な存在らしいが、オーケストラでは空気のようにめだたない。コンサートマスターやソロになると脚光をあびる
 カント哲学を『のだめカンタービレ』をみながら考えていたが、後編パリ編ののゴスペラーズの音楽はラフマニノフのピアノコンチェルトをアレンジしたものだということに何回か観照することによって<悟る>ことができた。
 ラフマニノフの音楽はロシアのオリエンタリズムに立脚した叙情性あふれるものだが、それゆえの暗さによって憂鬱になりやすい。ドイツのベートーベンもまた鬱屈した陰湿さがつきまとう。私の存在を具現化したような楽曲である。
 バッハの音楽は厳密さをかねそなえているので阿呆がきくとみのまわりの音を音楽にすることができる<妄想>にかられる。特に『平均律クラヴィーア』や『パッヘルベルのカノン』、『小フーガ』などは音符に弱い人間が聞くと音符に強くなれる<妄想>にかれれる。