カフカ的小説の創作過程

 私のカフカ的小説あるいは『教育哲学ショート・ショート −魂の千夜一夜おとぎばなしー』は夜にかかれる。大体は心理学の本の書き込みや『ハイデガー・ノート』からのパラプレーズを頭のなかでがらがらポンとやって書き出すのだが、主語と述語と修飾語がわかれたすっきりした文体にしあげるために夜な夜な魂を削っている。語学の勉強において『新独英比較文法』やカントの『論理学』に手をつけていたことはよかった。今後はヘーゲルの『精神の現象学』および『論理学』そして龍樹のかんがえていた「空」の論理学を組み合わせながら、おとぎばなしを書き続けて生きたい。原稿用紙の裏の白い部分にむかうとき、一瞬の緊張が走る此れで善いのか、この書き出しでいいのかどうかかなり迷うのである。名詞がアルファベットで人間味がなく味気ないではないかとか、現実にたちむかうことからにげているのではないかと「あれかーこれか」と迷う。20歳から30歳までの感性は40歳の感性とはちがう。「無から有をうみだす営み」は想像を絶するほどに<呑気>な雰囲気からかけはなれている。そして未来を描くことは過去と現在の自己を誠実に厳しくみつめていかなくてはならないいとなみでもある。人とのつながりをもってはじめて<人>は<人間>になるので過去の私がかつて出会った先輩や恩師、友人親戚のつながりをタイムマシンにのったようにさかのぼって考えそして今・ここの自己に照射させるそのみかえりが文学書や哲学書の書き込みに反映されおとぎばなしをつむいでいく。
 眉村卓によれば
 星さんの作品は、文章簡潔で平明である。だから、誰でも同じようなものが書けると錯覚する人が多いようだ。今また読む人が増えてきたらしいから、この前の、と書くが、この前の星ブームの頃、私のところへも、何人かの人が、星作品風のショートショート集を送ってきた。中には、これをこのままの内容で出版したいから出版社に紹介してくれ、との手紙が添えられているのもあったが・・・ 正直、みな星作品の亜流としか思えなかったのである。
 星さんの書くものはああ見えても、随分屈曲している事柄を整理し切り捨てて透明にしているのであり、うかつに真似をすると失敗するのだ。それに星さん自身、自分の作品とは異質な作風を好むところがあったのは、多分、そうした自分の亜流に辟易していたせいではないか。私にはそんな気がするのである。
――というようなことは、今更、と言われるに違いない。だが私はこれに加えて、もうひとつ、見方を述べてみたい。
 その道に通じた人にはわかり切っていることだろうが、私は何年か前、カードマジックをゆっくり見せてもらったことがある。見せた後、術者は言った。
「見せるときには、何をやるかを決して喋ってはいかんのです。相手がこれを知っているなと思うと、避けて、違う方向へ行き、また外し、という具合に持って行って、意表をつくのです」
 カードマジックのことはわからないけれども、私は、何だかショートショートの語り方に似ているなと思った。一直線に行かないのなら、当然、そうならざるを得ないであろう。そしてそこで私が頷いたのは、星作品が、最後のオチに持ってゆく前に、いかに工夫をしながらその過程をつないでいるか、の巧さにも支えられているのだ、ということだったのである。
星新一公式サイト 寄せ書き(http://www.hoshishinichi.com/note/)より

 もうすこし創作過程にひねりわざをいれこまないといけないらしい。もっとちいさなスケッチ・ノートにおとぎばなしのアイディアをかきこんだり、単語のカードをシャッフルさしてみたり、論理がせいりつしなければおとぎばなしにはなりえないという厳しい制約は一生つきまとうらしい。しかし、論理に誤植や破綻があったとしても足跡(フット・プリント)として自己の肥やしにしていけばいいので考え方もまた論理になるらしい。