『チームバチスタの栄光』からみたカウンセリングの建具職人的なわざ

 私は『チームバチスタの栄光』を外科の教科書的な映画と観ていたが、心理学の独眼流正宗的な勉強によってカウンセリングの建具職人的なわざを見出すことができた。紳士は複数でカウンセリングすることができるが、乙女は一対一のカウンセリングである。紳士の場合、Aの発言とBの発言を同時進行で聞き取り、それで情報を絡め取っ手いる。この行為はなんらかの倫理における事件解決において重要であるが、危険がともなう。紳士の行為は他者の深層心理に土足でづかづかと踏み込んでいるため、他者の反感を買っている。一方乙女のカウンセリングのわざは一対一の口述筆記ある意味プラトン的な存在なために他者から反感を買うことはまずない。乙女の牧歌的な雰囲気からカウンセリングの対象者は個人的な無意識を「べら、べら、べら」としゃべってしまう。紳士は乙女の報告書をみて「まるで小学生の書いた夏休みの絵日記だ」と評価している。また、紳士の思考はきわめて論理的で日常の行為においても論理的な行為をしている乙女が「なんでそばを食べながらうどんを食べているんですか?」という問いに対して「ちがいます、うどんをオカズにそばをたべているんですよ」ときわめて論理的な回答をしている。乙女はそばとうどんを食べる行為を並列の関係にしたのに対し、紳士はそばを食べる行為だけをうどん経由で語っている。ここにも一対一の関係と同時進行で絡めとることの象徴が隠されている。
 紳士と乙女がオセロの駒をつかってゲーム理論の応用を倫理学に適応したイデーで対話しているシーンではAがBの行為が成立するにはいかなる論理が成立するか、もし成立しなかったのであれば犯人ではありえない、というような推理で犯人を特定しようとこころみている。そして論理が成立しえなかった場合はそのことをどんどん省いている。「だめをくりかえして新たな真理に到達する」過程が実に鮮やかに描かれている。心理学でもゲーム理論が導入できる可能性を示唆する無明の光明がさしこんでいるらしい。