カント哲学の噛み砕きにくさ

 私にとってカント哲学はかなり噛み砕きにくい。基本的な概念をおさえつつ青ペンでマーキングしながら『純粋理性批判』(独:Kritik der reinen Vernunft)を読み進めているが、カントのぎりぎりと思考したあとを追体験するのでかなり苦しいものがある。
「くそったれ、なんでこんなぎりぎり考えるんだよ」
と怒りと艱難辛苦しながら読み進めている。
しかし、哲学の門をくぐった以上はこの本をさけてとおることはできない、西田幾多郎も散々この本をよんで自己の思索の糧としたらしい。『思索と体験』を朗読してその<息吹き>からカント哲学の影響力の大きさをうかがい知ることができる。
 2時間カントと向き合っただけで神経衰弱となってしまうので、カントのように散歩することが大切になってくる。無目的な散歩はウィリアム・ジェイムズも薦めている。「ただ歩く、それだけ」このことで思索がふかまっていくのであろう。
 実践的な運動理論にいかにしてカント哲学が導入できるか、この問いはまだ私にはわからない。ただ論理学に関してはバイオリンの音符をよみとるときやコンピュータの作業がスムースにできたので、こういうところで哲学はいきるのであるなぁ〜と大いに実感できた。
 ハイデガーもかなりカント哲学を読み込んでいる私はハイデガーの『論理学』をバイオリンやバレエのコンビネーションを<覚えるため>によみすすめていきたい。