『聖書』の問題

 新約聖書旧約聖書はちがうここは意見のわかれるところであるが、新約聖書イエス・キリストが主人公でそれを巡るスペクタクル物語であり、旧約聖書はやアダムくんとイヴちゃんがりんごを食った食わなかったでお話が展開されている。中盤になるとモーゼというおっさんが海をドバーンと念力でこじ開けるエピソードがある。
 どちらにしろパンとぶどう酒がでてくる。私はお酒をのむことができないのでぶどう酒を飲んだことがない。パンはご飯といっしょである。ご飯が横綱だとしたらパンは大関になるかもしれない。
 ミッションスクールのイメージはハイカラなお嬢様がハイカラな英語をならって英語なまりの日本語で、筆記体で和訳のもんだいをすらすらとこなすという印象が強い。そして日曜日には教会で神父さまの説教を聴く。私は一度なにかの間違いで京都にあるプロテスタントの大学のミサに参加したことがあるのだが、その日の題目が植木等の父の話で浄土真宗でありながらいろいろな宗教をくみあわせて説法をしたとのこと
「わかっちゃいるけど、やめられない〜」
息子の等はこんな歌を歌っても善いのか本気で悩み父に相談したそうである。すると
「これこそ浄土真宗の説く教えのエッセンスである、歌いなさい」
とのこと、ここはキリスト教の説教なのか?とすこし首をひねって
賛美歌(グローリア)をさも日々かよいつめている敬虔なクリスチャンのように歌った。
霊魂(Seele)を考察するのに宗教は関係ないのかもしれない。