カフカ的小説 「ペンタゴンのバイオリン」

 Kは自己の存在理由について考えていた。親友のSは「君の考えていることは単なる悩みにすぎない」と言って相手にしなかった。Kは「ペンタゴン」とよばれる国際的な事件を専門にあつかう裁判所の事務をやっていたが、Kに頼まれる仕事は「ペンタゴン」の内と外の人間関係の問題ばかりだったのいつしか「愚痴専門のKさん」という渾名までついてしまった。
 1週間に2回、Kは「ペンタゴン」にやって来た。Kはうつ病を患っており、週2回の「ペンタゴン」の出勤以外は、安いアパルトマンでバイオリンを奏でたり、国際法、解剖学、精神医学を自己流で勉強していた。Kのアパルトマンには大きな樫の樹でできた机と座りごこちの善い椅子に先祖から譲り受けた万年筆を黒いジャケットの胸ポケットに大切にしまっていた。
 土曜日になるとKはバイオリンを奏でた。Kはドイツあるいはウィーンへ行きたいと思っていたが、金がなかったので小説を書いたり、論文や詩を書いた原稿料でなんとかドイツにいきたいとSにも話したことがあったが、
「夢物語ばかり書いてないで現実に足をつけた生活をしたらどうなんだ」
と一蹴されてしまった。
 Sの紹介で、或る大学で小説と小論文を書く仕事をKはまかされた。しかし、Kは拒んだ、人前で演説することが好きではなく、人見知りが激しい男だったためだ。大学で哲学をしていたら、指導教官に「法務の仕事をしたらいい」と言われたので、法務の事務仕事をしているが、ほとんど仕事場に顔をださなかった。
 解剖学の勉強をはじめたのは樹海で男性の自殺した死体の司法解剖に立ち会って欲しい、と会社のMにいわてれたためである。Kは現場である樹海へと足を運んだ。わけても、わけても鬱蒼として樹にかこまれている樹海はKを不安な心持ちにした。
「この樹海は自殺の名所だったんだけど、コンサートをやるようになって、自殺の名所にならなくなったんだ。あるエピソードがあってね。いじめで苦しんでいる女子校生がこの樹海を訪れて、自殺するためのロープをリックから取り出して首におっかけた、その時にバイオリンの練習をしているGというバイオリニストが静かに演奏をやめたんだ。すると、その女子高生『もっと、もっと聴かせて』と頼んだんだ。Gは元々精神科医で医学の研究が嫌になって趣味のバイオリンで音楽療法士の資格を取って、ときどきこの樹海で練習していたんだってよ。それ以来、この樹海には音楽家しか来ていない」
 KとSは合奏をした。SはチェロでKはバイオリンだった。ふたりのあいだに流れるささやかなシンフォニィは光の海の波のようであった。波は樹海のなかをつつみこんでいった。1時間の合奏がおわるとKとSは自宅へ帰った。もう、夜が明けて朝になっていた。
 Kの理性はSの感性よりも劣っていた。Kは論文や詩を書くことができたが、数学のものの考え方が苦手で簿記関係でよくSに相談していた。会計はヒトケタのミスで命取りとなる。そのために人間関係の問題を<ときほぐす>役回りとなってしまった。
「他者の論理を受け止めることがはたして俺にできるのかなぁ」
と不安だったが、仕事は忙しいものだった。
 出家したいが家がローマ・カトリックで「禅僧にはなるな」と父が言うと嘆く女性が来たときには禅僧と神父立ち会いのもとでカウンセリングをおこなった。問題は、「彼女の両親の宗教の認識のゆがみ」であった。まったく、法務の仕事に宗教がからんで来るなんて、とKは述懐した。
 その後、彼女は元気に禅寺へ行き、キリスト教でありながら禅僧である<禅キリスト教徒>として全国を行脚し、ドイツで哲学の博士号をとった。Kの机には微笑んでいる彼女の姿と、彼女の夫であるドイツの哲学者とこども3人が写し出された写真がかざってあった。