長編小説についての覚え書き

 私は長編小説を書いてみたいと思う。体操やクラシック・バレエの世界を現実主義にのっとって物語にしていきたい。『まわる神話』に登場する人物たちは複雑な家系をもっており入り組んだ一族と一族が世紀を超えて交流しあうという<友愛>をテーマとした物語である。構想は大きなノートに登場人物の家系図を書いたり、それぞれのキャラクターの人物をことこまかに書き記すことにする。そのあと、<書き出し>や<メモ>や脚本の<ト書き>のようなものを盛り込んでいく。
 なぜ、脚本の<ト書き>のようなものを書くかというと私は小説を書きながら脚本あるいは戯曲を書いてみたいからである。「善い脚本からは悪い映画は生まれないが、どんなに善い監督でも脚本が悪ければ善い映画は生まれない」という言葉をどこかで聴いたことがある。
 小説を書く意味についてはいつも私が本屋をのぞくたびに「ここに私の本がおかれるのか」と妄想する。しかし、これだけ名作がならんでいるので私は不安にかられる。私は小説は「夢と希望をあたえる」紙束とかんがえているが、資本主義では商品となってしまう。「読者がどう小説を解釈しようとそれは書き手の自己の感情ではない、他者の感情すなわち読者がきめることなので書き手の自己には関係のないこと。しかし、読み手の他者は書き手の自己を読んでいる」という問題にあたったとき泥沼にはまる。
 やはり、作品を生み出した人間、すなわち作家はこの問題を永遠に<気>することなのかもしれない。大切な赤ちゃんが成長して思春期をむかえ、やがてひとりの大人となるのを見守るように作家は<みづから>生み出した作品の成長と自己のペンの才能と静かに戦わなくてはならないであろう。しかし、そのことが楽しみで仕方のない人もいるらしい。