カラマーゾフの兄弟とゴッド・ファーザー

 私の家系はゴッド・ファアーザーあるいはカラマーゾフの兄弟の世界にきわめて近い。親戚が集まるとたちまち饗宴がひらかれる。「あのひとだれだろう?」と思っても頭をさげる。「どうだろう?」と思っても頭をさげる。所々おとなたちがささやきあっている光景はまさにゴッド・ファーザーの世界である。私はこの光景が何よりも嫌いである。理由はない。
 冠婚葬祭のあつまり某かの話題は健康関係になってくる「足が痛い」「ぐーぱー体操をはじめた」「どこそこのだれそれが腰をわるくした」など2〜3時間その話題をただひたすら聴かなくてはならないのでかなりつかれる。同年代の親戚は皆無。ちびっことゲームをしようにもゲームのやり方をしらないので馬鹿にされるので葬式は好きではない。
 沼津の行きつけのお寺さんは親切でお坊さんともなかよしである。そこのお坊さんも大谷大学出身である。いちど深い話をしたことがある。
「ご飯をたべるときに<いただきます>と<ごちそうさま>をちゃんと言ってますか」
「はい」
「そうか、それはえらいね。ぼくらは戒律が禅宗とくらべるとあまいから『生臭坊主』っていわれちゃうんだよ」
「そんなことないとおもいます」
God FatherのペーパーバックとKaramazov Brothersのペイパーバックが下宿に存在する。
ゴット・ファーザーの映画はパート3までありとてつもなく長い。
パート2から最後までみれなくて四苦八苦している。
パート2は一人息子が成長していく物語、ヘーゲルでいえば下巻の人倫の途中あたりだろうか。
カラマーゾフの兄弟』は原卓也訳を高校時代に読了したのでずぶずぶ江戸前米川正夫訳に挑戦している。
現在は三男坊の信仰深い神の存在に悩ましげなアリョーシャのエピソードである。