動く解剖学と医学

 ヘーゲルの『精神の現象学』の頭蓋論からあたらしい解剖学をかんがえようとしているが、隔靴掻痒のドイツ語の文献をあたらなくてはならない。緊急医療の現場では0.5秒で判断しなければならないので「見た目で患者の人相を判断する」ことが必要なためヘーゲルの頭蓋論でとりあつかわれている人体解剖学をひもといてみたが、当時の古典的な解剖術が現代の医療に導入できるか否かはかなり難しいと注釈をひもといて痛感している。
 とくに器械体操やバレエの世界では骨格の問題がほかの身体活動とくらべると格段に重用になってくる。器械体操の場合ここは叔父の専門領域になってしまうので他言することはできないが叔父曰く
「怪我はおきるまえに兆候がある」そうである。
私は陸上競技をやっていた経験があり、練習中の怪我はランニング中にバレーボール部のバレーをよけた瞬間に走っていた石段からずりおちて足首をひねったり、中距離なのにたまには走り高跳びに出てみようと意気込んで走り高跳びの練習にあけくれていたら、飛び方がまったくわからずに上方向に跳躍することなくバーの前に<流れ>てしまって腰骨にバーの赤黒の印が刻印されるまで練習したので腰をいためた程度である。
 試合中では中距離では怪我をしたことはない。1500mは平和主義者の競技で800mは荒くれ者の競技である。3000m以降は鍛錬と根性の世界になってしまうので思想の組み分けが困難になる。マラソンランナーは策士が勝つか、運命の月桂冠をもらったものが最初のゴールテープをきるのかまったくわからない。
 しかし、一般的に中距離と長距離をおこなっている競技者はのんびりやで話をしても
「朝はしって寝てたべておきてはしって昼たべてはしって寝ておきてはしって夕飯たべてはしってねます」
というライフ・サイクルとなっているのでシンプルである。
そのために故障は複雑骨折よりも疲労骨折の危険が高い。
息抜きのバスケットボールやサッカーは欠かすことはできない。
私はまったくの球技音痴だったので三人の親友の運動神経についていくことができなかった。
スタミナだけはあったので
バスケットボールではボールをおいかけてボールにさわることなく終わる。
運がいいと敵のボールをカットすることができた。
なれるとなんとか味方にパスをすることができた。
サッカーではボールの行き先が仏様にもわからずオウンゴールをきめるのでいっしょにいた中学時代のサッカー部のキーパーの友人に
「てめ〜やる気あんのかよ!」と怒鳴られた。
高校時代には強豪校のエースからボールをカットできたのが一番うれしい思い出である。<わざと>ボールをくれたという場合も否定することはできない。そのエースは掃除の時間にサッカーボールを<わざと>私のおでこにシュートしてあてることができるほどのわざをもっていたのだから、しかし真理は永遠に闇の中である。
バレーボールではアンダーハンドレシーブでボールを打っても必ずネットにあたるので
見方に白い眼でにらまれる。ポジションはもちろん後ろでリベロはまったくボールにふれることができなかった。
球技のなかでも一番呪っている種目である。
 叔父は現在陸上競技の顧問である。中長距離は例外なく変人が多いので思想統制に日々おわれているはずである。私もまた例外ではなかった。渡された練習メニューの2倍やってしまい身体をこわしてしまい永遠に陸上界から眼をそむけることにした。
「おまえは適当でいい」
という指示をまもれなかったためである。
<やらなさすぎる>と<やり過ぎ>の中庸をたもつのは熟練のきわみである。