カフカと涙の黙示録

 エドワード・サイードカフカの生涯を丹念におっていきたい。それはカフカの生涯を描いた自伝や評伝を読むことでもあるし、カフカ自身が書いた作品を読む行為でもある。エドワード・サイードはその発言と著作によって丹念におっていきたい。「どこにもあるけどどこにもない場所」をもとめて発言し、ものを書き続けた熱き魂は星新一氏につうじるものがある。「あっちへいったり、こっちへいったり主体性がばらばらと解体されたおもしろさ」があるがその「おもしろさ」は「壁」を乗り越えたものにちかい。どうにもならない「閉塞感」であったり、日常にたいする反抗心であったり文体からにじみ出るものに涙がとめどなく流れる。
 そのことは風貌からも醸し出されている。美しき瞳の深淵に隠された<宝の沈黙>その鉱脈をカフカは<書くこと>によってエドワード・サイードは<つむぎだす>発言によって生み出しつづけた。時の流れは残酷にすぎゆくばかりでせきとめることはできない。そのことはわかってはいるのだが、両者は行為によってそれをせきよめようとした。その行為は膨大な力が必要でありかぎりない苦悩に裏打ちされていた。
 閉塞感を打開するヒントは新聞よりもむしろ文学にあるのかもしれない。しかし、文学や読書体験は個人の行為であって土足でずかずかと踏み入ってはいけないであろう。親しい友人とお茶や酒をのみながら体験や経験をおりまぜてつむぎだすことが善い行為であり、「よく生きること」につうじるのではなかろうか。