三人の親友

 文章はペンあるいはえんぴつを紙でひっかくと書くことができる。しかし、何を書くべきかがここで問題になる。私は主として雑文とピーヒャラな小説しか書くことができない。神からもらったひとつの才能である。仏からは無口と<あんぽんたん>な頭脳をさずからせていただいた。この文章は夜に<もそもそ>と万年床からむっくりと起き、青いノートに青い万年筆で書かれている。「ペンは剣よりもつよし」と私が一番ありがたがっている日本の貨幣のイラストの人物がむかしつぶやいていたが、このイラストの人物がこしらえた大学に通っている親友は母が看護師でキリスト教を信仰していたために遠藤周作氏の『女の一生』を私に薦めてくれた。その時はとてもドストエフスキーが好きだとは言えずに私は東野圭吾氏の『探偵ガリレオ』シリーズが好きだとこたえた。いつものテンポで対話は進んでいった。
 対話のテンポは親友ほど「間」がすくない。あるいは「そんなことは言わずもがなのことだろう」と行為で注意してくれたりする。この場合は私が阿呆な行為、例えばぼーっとして後ろから自転車が来ているにも関わらず、そのまま歩いている行為や「オオシマらしいな」と周りから言われる行為(私はこの「オオシマらしいな」と周りから言われる行為がまったくわからない)を親友たちは注意してくれる。私は三人の親友のカウンセラーになっていた(現在は三人とも私の知らない場所で知らないことをやっている)。その三人は私よりも頭が善く、身体能力も高く、ルックスも善く、クラスの人気者。私は三人の悩みを<聴く>ことしかできなかった。三人とも私より陸上競技部に入っており、レベルが私よりも高かった。
 地区の大会から全国区の大会へ行ってしまった親友もいれば、全国には三種競技が存在しないために「何故、全国には三種競技がないんだ!」と嘆いたキリスト教の親友もいた。現在はその三人の親友と音信不通の状態である。
 上記のもうひとりの親友はANAの社員食堂でだだ食いをした大物でパイロットをめざしている。心配なのは高校の陸上競技部の練習中にバーベルを足におっことしたり、試合の会場に行く車のなかで「あっ、スパイク忘れた!」と<もの忘れ>や<どうかな〜>的な行動をとる。全国大会に行った親友は、彼の行動を「OZらしいな」と微笑みまじりに規定していた。
 三人とも私がウマだとすると人間か親鸞パウロかマタイなので私のような阿呆で不可思議な学生生活はおそらく送っていなだろう。