<あいつ>は自己のあらわれか否か。

 他者を<あいつ>ときめてかかってしまうときすでに自己には敵愾心が宿っている。<こいつ>というときには自己より下に位置づけている。どちらにしろ生意気な自己のあらわれであることにはちがいはない。そして、他者をどううけとめるかで未来の自己の生きかたがきまってしまい、また過去の他者とのつながりをどう考えるかによっても今・ここの自己の生きかたがきまってしまう。つまり自己の内面をさらけだすことは勇気のいることである。
 ウルトラマンが正義の名のもとに怪獣という他者を制裁するが、町の平和は乱れている。ウルトラマンはほんとうに正義の象徴であるのであろうか。確かに怪獣を制裁しなければ、町の平和はおとづれない。しかし、その悪い影響は人家の損傷という筆舌につくしがたいものである。残された家族はどう生計をたててゆけばいいのか、ウルトラマンは無責任に3分間で銀河へとかえって何食わぬ顔で人間にばけてしまう。怪獣のあとかたづけは残念ながら私は見たことがない。損傷した家屋は国際救助隊が弁償するのであろうか。日本の法律の範囲内でウルトラマンを裁くことはできない。ウルトラマンは地球外生命体としての存在なためである。では、ウルトラマンは表現しているのか、演技なのであろうか、そうであるならば「表現の自由」となり無明の光明をさしだすことができる。しかし、これほどまでに大規模な「表現」だと国家がこまる。
 鳩が平和の象徴で十字架がキリスト教の象徴であるようにウルトラマンは正義の象徴であるが、根源まで考えてみるとその正義はきわめてあやしげな雰囲気をはなってくる。そしてウルトラマンの親戚であるウルトラマンセブンは「名前はそうですねぇモロホシダンとでもしておきましょうか」という無責任な<名づけ>で人間界に存在する。モロホシダンが存在者なのかウルトラマンセブンが存在者であるのかきわめて怪しくなってくる。
 こうかんがえてみるとウルトラマンの大家族は驚くべき宿命をせおっている。人間界に平和をもたらすべしという義務である。ウルトラマンのすんでいる銀河には実定法があるのであろうか。そうだとしたらこんな理不尽な実定法は理解しがたい。広い銀河系のなかでたったひとつの地球という名の惑星の人類の平和をまもらなくてはならないためである。銀河系は広く何千何万という怪獣たちが美しい地球をねらってやってくる。これでは「あれか-これか」の二者択一の問題ではなく、「あれも-これも」のひろい意味での制裁行為となってしまう。こうなるとウルトラマンが大家族で地球をまもることの神秘のヴェールがはがされた。地球をまもるべしという責任を一家で担っているのである。
 このことを一般化すると家族におけるごみ当番や片付け当番などの一家の当番製にあたるが、銀河系規模の当番製はスケールがちがう。人家を壊そうが、ビルを壊そうが、ウルトラマンの家族にはまったく眼中にない。私が推理すれば、おそらくウルトラマンの食卓の話題にすらあがらないことであろう。「今日は3分間で怪獣を制裁することができなかったこと」がむしろ大きなもんだいとなりいかに次の怪獣襲来にそなえて戦略を練ることに焦点があてられるであろう。

 今日の地球ではウルトラマンがいてもいなくても人類の平和に意味がないが、「ウルトラマンのような人間」は地球に何人か存在する。私は親戚やとおい世界にたしかにあの瞬間に「ウルトラマンのような人間」になってしまった存在者をしっている。「ウルトラマンのような人間」は「普通の人間」とあきらなかにことなった実定法で日常を生きている。「どうかんがえてもそんなことはしないだろう」と「普通の人間」が考えている範囲外のことをやりつくすために「普通の人間」に理解されることは極めて時間のかかることである。