美意識ってなんだろう 『教育哲学ノート』より

 音楽と身体を関係づけて<教育のありかた>や<教育臨床心理学のありかた>をまさぐっていきたい。そのためには私のコンプレックスの源泉と向き合わなくてはならない。私の叔父と同化することが必要なのである。このことは間違ったことなのかもしれない。私の父の死により叔父の考えていた「運動の美意識」における問題をのりこえなければ、私は心の闇をのりこえることはできないと直観している。―体操競技クラシック・バレエの身体をとおした哲学によって、教育哲学や教育臨床心理学における師と弟子の「間柄」における様々な問題がときほぐされる<気>がしてならないのである。そのためには、高等学校の器械体操部に出向き、<生き生きとした魂のほとばしり>に出会いながらも、あるべき教育哲学のマイル・ストーンを探ることが理性の命ずる必要条件であろう。我が大学には残念なことに器械体操部が存在しなかった。そのために私はクラシック・バレエに出会ったが、そこで<意識の流れ>の問題と音楽との「間柄」の問題を「場所」に<立つ>ことによって想起することができた。また、クラシック・バレエの世界では師と弟子または我と汝の「間柄」の問題が重要であることを身体をとおして学ぶことができた。体操競技のA級国際審判員の資格を持つ私の叔父によれば「体操競技の世界の人間がクラシック・バレエを観ることはあってもその逆はありえない」と語っていた。叔父の恩師の<動きかた>はクラシック・バレエおよび能楽の理論である『花伝書』を完璧に具現化しているため、観ている者に<ただならぬ雰囲気>と<安心>をあたえることができる。しかし、そこにいたる道程には血のにじむ努力の積み重ねに<立つ>ものであり、現在の体操界においてこの<身体知>および<美学>を具現化することは非常に難しく、<時間>がかかるために、正確に理論家し、具現化する者はまだいない。
 日本哲学のなかで禅体験はきってもきれない関係である。そしてこの禅体験と能楽の世界はきわめて近いものがある。私は学生生活をとおして日本哲学や身体の表現を体操競技およびクラシック・バレエの比較から考察していきたいとかんがえている。そこから醸し出されたことは『教育哲学ショート・ショート』として<おとぎばなし>として文章表現していきたい。このことが、体操競技およびクラシック・バレエにおける「世間」における認識の誤解を<ときほぐす>ものであるようにと切実に私念している。