親鸞を見た『サイコ・ドクター』

 私は精神世界の四方山をまさぐっている。ドラマの中でも精神世界は登場するらしく、『サイコ・ドクター』というドラマのなかで患者に寄り添う精神科医が克明に描かれている。なかなか興味深いせりふがある。主人公は冷蔵庫のなかに沢山の石鹸をいれ何度も何度も手をあらわないと<気>が済まない。来談者のおばさまに「強迫神経症よ」と言われると、「ちがう、<強迫神経傾向>だ。ちなみに精神分析の世界では<普通の人間>と呼ばれる人間は<神経症の人間>をあらわす。オーストリアフロイトがいってたぞ」

 注意深くみていると、精神世界のことが善くわかるが、「善悪の彼岸」に立脚した探偵的な存在であることが、机上の理論にうもれていない「臨床の知」の存在者である親鸞と同様な立場であることが善くわかる。親鸞とおなじように「自己の世界」に入ることがおおく、同僚の内科医に呼びかけられて「バッ!」と眼を見開き、洞察力と理論と体力で心のシャドウを天空の城ラピュータからさしこむ光明のように照らし出す。

 フロイトの理論をまさぐることは私の肌にまったくあわない。忘れ物をしたり、ヒステリーの発作がおきてしまう。そのためにユングの心理学にもっぱら系統している。箱に砂を敷き詰めて、水をじょぼじょぼいれて沢山のおもちゃを置いたあとおとぎばなしを<語る>そのことで「こころのみえないものがみえてくる」という理論があるらしいが、実際に私はやったことがないのでわかりかねる。登山活動もまた精神のカタルシス(浄化)に役に立つらしい。ドラマのなかで配役を決めてそれぞれ演技をしてもらうことで演技者の心の闇がカタルシス(浄化)されていっているのを見てふくろうのように「ほー、ほー」といううなづきをついてしまった。
 
 主人公の筆記の仕方はかなり独特で来談者の<語り>をパラフレーズに書き留めて一本の菩提樹のように系統立てて無明の光明を照らし出す。彼は内向性思考型なのではあるまいかとひそかにおもっているが、ドラマの世界なのでわかりかねる。ちなみに親鸞はどうであろうか、ひきこもって『教行信証』を書いたり歌のような『歎異抄』を物語ったりしているので内向性直観型かあるいは説法をしきりにしたので外向性思考型なのかもしれない。ここのところは専門家にたずねてみるしかあるまい。

 大乗仏教の救済が来談者に降り注ぐ過程を見守ることは精神医学の世界で必要条件なのかもしれない。精神分析の技法を教育の「場所」で取り入れたら失敗する危険がおおきいとかかれてあったのだか実践してみたことがないので私にはわかりかねる。ユング精神分析というよりも体験からにじみ出た自己流カウンセリングの理論なので理論を生かそうとするとカウンセラーの個性が「もろ丸出し」になってしまうことは間違いない。

 アニマとアニムスの概念を知るためにクラシック・バレエ体操競技の世界に飛び込んだらとんでもないことになってしまった。
♪もう〜もどれないあ〜な〜たが死んでも〜♪by徳永英明氏の歌または清澤満之の思想
歌の概念がボイメあるいはバウムのように私の爪先から指先まで絡みついてはなれない。運命かもしれない。