『エトワール』

 この映画はなんどみても涙なしには見ることができない。フランス・パリオペラ座の厳しさとエトワールになるための<血のにじむ>世界が克明に描かれている。
「バーは救命道具じゃないのよ!」
師の教えは芸道理論の極限位相を目的にしているため、おこさまにも容赦しない。職業としてのバレリーナが家庭をもったときの自立の困難さ「人生の境涯」の奥深さがフィルムに焼きついている。音楽は<意識の流れ>といかにして関係しているか劇中のバレエダンサーの言葉にヒントが隠されていた。
「パ、パン、パン、パ、パン、パーン<ベートーベン交響曲第九番のバレエ演目>頭のなかでカウントするんじゃない、音楽が鳴ったら身体がうごくんだよ」
そこまでの境地にいたるまで、砂を噛むような地道な努力とすこしの<遊びごころ>がかくされているが、「さもありなん」とこなしている姿は「おれにもできそうだ」という感情を観客にあたえる。その感情をあたえる高度な表現力が舞踏家や舞踊家の「人生の境涯」をあらわしているのだろう。
 私はリリパットおよび母から口をそろえて「バレエはやめろ」といわた。
①つづかない
②お金がかかる
③骨格に問題がある(膝がかたく伸ばしたときにつま先がまっすぐではないこのことはリリパットに壁倒立を行っていたときに指摘
された「お前は世界で戦えない演技の流れをみてみないと判断することはできないが、しかしおれといっしょで膝が硬い。おれは現役中に膝にパットを入れて工夫していた」)
腰の屈曲の問題は以外と根深いのかいまだに腰が痛く、眠っていてもジンジンといたむ。心身相関で大学がはじまる不安感が腰の痛みにあらわれているだけかもしれない。

腰や膝の問題は古今東西を問わずダンサーや体操競技選手の問題である。
加藤澤男は現役時代腰椎を断裂したにもかかわらず、地道なリハビリとストレッチで現役に復帰、「できることからやってみよう」精神で膝の故障も腕の筋肉ならきたえられるだろうと病院の廊下を倒立歩行することによって体操競技における空間認知と肩甲骨まわりの筋肉や骨格の回転をなめらかにした。

④動きをおぼえるのがもう遅すぎる。おこさまから訓練によって骨格をつくりかえいく体操競技およびバレエの世界ではもうどう考えてもおそい。花が咲くなら40を超えてしまうが、どう考えても体操競技とバレエとヴァイオリンを両立することは不可能である。

カント哲学やフッサール現象学、およびヘーゲルの論理学によって
空間認知を鍛えながら、どう「だまくらかして」学生時代をすごすのかがこれからのテーゼになりそうである。
そうすることによって西田哲学の身体理論やハイデガー思想の介護やターミナル・ケア問題に肉薄することができるのではないか、
と私は魂(プシュケー)のなかで<妄想>している。