ドストエフスキーとトルストイとプルースト

 私の読書体験の長い御伽噺はドストエフスキーに始まる。ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』は神をめぐる兄弟喧嘩が主題で中間に社会主義思想を叫ぶ少年がペレズヴォンという犬とともに登場する。そして根性をためすために汽車の線路に横たわる。私は主なストーリーよりもむしろこのストーリーが好きで勇気を感じるのである。ここからなにかはじまるのかなぁと思ったらぶつりとなにもはじまらない。ドストエフスキーはいったいなにをかんがえていたのか皆目わからない。
 その謎を解くというよりも御伽話の存在を問うためにさまざまな文学にぶちあたっている。たぶん40歳を過ぎてもかんがえていることであろう。現在はトルストイを読み味わっている。かなり官僚のにおいが立ち込めている。大学を中退したおやじがこんな繊細な御伽噺をかくことができるなんてと腹のそこで笑いながら『復活』を読んでいる。私は『復活』は大学受験中に呑気に読んでいた思い出の御伽噺である。バレエをやっているのでマイヤ・プリセツカヤもバレエの舞台で演じた『アンナ・カレーニナ』も『復活』が読み終わったあとにゆっくりと読んでいきたい。私の下宿のちかくにこのおやじの宗教を母体とした幼稚園が存在するのでああこれは運命てきな出会いだなと思わずにはいられない。とある大学はこのおやじの理念で運営されているらしい。
大学を中退したおやじが大学の理念となっているなんてカントの矛盾律であろう。
ロシアの人々は民衆に御伽噺が浸透しているらしい。フランスではマルセル・プルーストの『失われた時を求めて』が盛隆を極めている。フランスの世界観がどーんと時の流れに身を寄せ合ってうけとめることができる。
恩師の影響力が夏休みに浸透してきたらしいが、いささか書籍の量がふえたために母は大変におかんむりである。もう「だまくらかす」レヴェルを超えてしまった。

フランスの地中海世界ブローデルという歴史学者が詳細に書きつづっている。この筆致は古代ギリシアのヘロドドス『歴史』にひってきする。ヘロドトスは「歴史の父」という愛称でしたしまれている。

「女性は下着をぬぎすてると同時に羞恥心をもぬぎすてる」

という激烈な一文にであったときには我が大学の古典の先生の
「凄いことがかいてあります」
の何が「凄い」のかわかったものである。
やはり読んだ本は不可思議な「縁」によってつながっていくらしい。