ギリシア語などの変な言語をやる意義

 ギリシア語やロシア語やアラビア語をやるとなんのとくになるのかとおもったことは一度や二度ではない。たしかに英語の語源を究極までたどるとギリシア語やラテン語となる。英和辞書を善くよむとそのことをはっけんできる。恩師は
「ドイツ語もロシア語も親父はギリシア語だからギリシア語やればいいじゃん」
と助け舟をだしてくれたが、あまり助け舟になっていない。語形変化が銀河系の星を集めたように複雑なのである。
呼格、属格、与格と呼びかける対象によって言葉のオシリの部分が次々と変化していくので、複雑系カオスである。古代のギリシア数学の世界はロマンを感じることが出来るが、かなりマニアックな世界で共有しようとおもうとかなりの忍耐と根性が要求される。

存在と時間』の冒頭部分は「・・・・・・というのは、《存在する》という言葉を使うときに、自分でいったい何を言おうとしているのかを、君たちならばずっと前からよく知っているにちがいないのだが、われわれの方では、ひところでこそそれがわかっているつもりだったのに、いまでは途方にくれているありさまなのだから・・・・・・」というプラトンの『ソピステース』の引用があるがその部分が古代アッティカ地方のコイネーという方言に基づいた古典ギリシア語なのであるが、新約聖書でつかわれている古代ギリシア語とはちがうのである。我が大学の古典ギリシア語の先生はコイネーの名手であり、現代ギリシア語だと勘違いしている人間は立ち去りなさいと怒鳴った。私は数回でその授業をドロップアウトしてしまった。
恩師は
「現代のギリシアのひともつうじるらしいよ」
とお得な助言をくださったが、京都にすんでも沼津にいってもギリシアの人に出会ってないので話す機会がなかった。ちなみにロシアの人は沼津のとある百貨店の喫茶コーナーに一家でいたので沼津も国際化がしたものだと感慨にふけった・・・・・・。
そのうちドストエフスキーさんの末裔がくるかもしれない。
 
 複雑怪奇な言語は英語と平行してやると不可思議な事象を理解しやすくなる。
「A君がB君に『D君の家の家族はなんか普通の家族とちがって軍閥のようだ』とにささやいている瞬間をFちゃんが障子の隙間からみていた」
という少しばかり不可思議で「家政婦は見ていた」的なエピソードを他者に伝えることが出来るのである。