母校にかすかに香る哲学

 ソクラテスの意思は現代にも着実にうけつがれているようである。私は母校にてくてくとペリパトス(歩廊を歩く行為)しながら訪れた。現代の諸問題に誠実に向き合うためには過去の自己とむきあうことが必要条件である。自己の問題は他者の問題となりえる可能性が十分に在るために過去の自己とめぐり合うために母校を訪れた。白髪のふえた先生をみつめると現代教育の問題点が浮き彫りになる。白髪は人間が精神的な苦痛を味わわなければ、増えることがない。私も予備校時代に若白髪の増殖問題に真剣に取り組んだものだった。偏差値の大きさと白髪の量は比例するのかという問題に影ながら取り組んでいたのである。エレベーターにのりこむ同士たち、沈黙が流れるが相手を気ずかう配慮的な視線は自然と頭にむけられる。
「あいつはなんて苦労しているんであろうか、きっとひどくおいこまれているに違いない」
と私は予備校の寮の鏡をつかってみずからをみつめ、白髪の量を確認した。精神的苦労をしていなければ、勉強していることにはならないという大正の旧制高等学校の埃くさい概念が頭のなかに渦巻いていたので、白髪の少なさに後ろめたさをかんじてしまったものである。
 我が大学の哲学教師は白髪をとおりこして白銀の白髪である。まさに「いぶし銀」の知性(ヌース)を宿した哲学徒の姿を具現化しているといえるであろう。哲学者の姿になることはないが、頭のつかいかたが大多数の人間とそれているので根をつめすぎると寿命を縮めてしまう。とある恩師に寿命を縮める文章の書き方をさけるようにと諭された経験があるが、こまったことに私はそういう書き方自体をしているのかさえ自覚できないので困っている。
 今日の教師の実態は職人の細やかさを要求されつつも教師間の連携を円滑にすすめることで生徒ひとりひとりの個性を見極め生徒ひとりひとりの魂をいつくしみ成長させる教育になっているようである。しかし、教師のひとりの力は限界がある。それをとりまとめる思想や叡智を歴代の哲学の叡智から実践倫理学として生かすことができないかと教育の生き生きとした「場所」を見つめた上で必要だと私は直観した。

 たとえばバスケット・ボールの選手がバスケット・ボールの籠にボールが入らないからといってスタメンをはずされることは倫理学上あってはならないことである。コーチは個性をみきわめ同じ籠の縁の部分に連続して五回以上バスケット・ボールをぶつけることができれば、正確なパスを他者に投げる可能性が高いと判断し、ポジショニングを考えてみる必要がある。バスケット・ボールの醍醐味を球が籠に入ることだけに目的を絞ってしまうと面白味が格段にさがってしまうのである。
 ほかにも動き方の問題、よけることが上手な選手はその特性を最大限にいかせる位置に選手を配置すれば、ボールを投げるちからがなくても十分スタメンで活躍できる可能性があるのである。
 
 人間の魂は身体のあらわれであり身体が生き生きと動けば、動くほど人間の魂も同様に生き生きと動くのである。舞踊家も身体の絶え間ない修練によって己の魂を芸術表現の極限位相まで高めていく。時の流れは霊長類でさえもとめることができない。意識もまた同様である。運動が開始した時点で人間の意志ではどうにもならない場合も多々あるのである。それは音楽の場合でもいえる。
究極の名人バイオリニストが素人音楽同好会に突如あらわれて演奏をその「場所」で共有するとその存在につられてしまう演奏者がいることはバイオリンなどの楽器をやった覚えがある人間なら身に覚えのあることであろう。
 触発される存在がいる。そんな人間は「ただいるだけでいいから・・・・・」と意味不明な指導をうけ不可思議な教育の激流にのみこまれ、世間の価値観とはちがった価値観を植えつけられ、同年代との接点をみつけるのに苦労する。