夏休み論文を書く〜「運動現象と純粋経験」〜

 私は夏休みを利用して大きなクラフト紙に青ペンで横書きで論文を書くことにしました。夏休み明けには正式な論文として大学院生のゼミナールで発表できたらと考えています。運動現象は主として私の体験にもとずいて、西田幾多郎の『思索と経験』のなかの「ベルグソン純粋経験」と西田幾多郎哲学論文の「場所」を考察することで、運動がおこる「場所」と<純粋経験>について実践的に考察していきたいとかんがえています。
 そして、それに付随してベルグソンの『時間と自由』のなかで「運動」とそれにともなう人間の感情についての記述があったので青線をひきながら「運動現象」について考察していきます。「運動現象」は<純粋経験>のなかに内包されます。したがってウィリアム・ジェイムズの『純粋経験の哲学』および『プラグマティズム』によって宇宙的な考察もつけくわえることで「運動現象」を広い意味でとらえていきます。
 バイオリンとクラシック・バレエ体操競技の「運動現象」は連続した現象です。そこには何がしかの宗教性がからんでいるはずです。そのためにパースの思想『連続性の哲学』もリンクしてかんがえていきます。
 パースはカントの哲学を租借しているので『純粋理性批判』をできるだけ青線をひき、そして原書もかみくだきながら論理的に思索し、夏休み明けにまとめるつもりです。
 『思索と体験』と西田幾多郎哲学論文の「場所」は繰り返し朗読することにします。それによって論文のポイントがえられるとかんがえています。

 そして、「運動現象」の現象学的記述(物理学や数学の世界で運動現象をとらえることではない)をかんがえるために、フッサールの『イデーン』を青線を引きながら余白にメモを取りながら考えそしてハイデガーの『現象学研究の入門』を朗読することにします。そのことによってフッサールハイデガーにおける現象学の考え方の違いや「運動現象」の文章表現方法について考えてみます、このことも夏休み明けの「運動現象と純粋経験」の論文にいかされていくと思われます。

 また、リリパット(叔父)との交渉でakitomo kaneko先生から体操競技の経験についての哲学的対話(ディアレクティケー)をおこないたいと考えています。手紙を明和出版に出したのでたぶん沼津の実家に8月の下旬あたりに返事がもしはやければ8月の上旬には返事が来ると思われます。