運動表現の考察について

 私はオーケストラレーションとクラシック・バレエ、そして体操競技における運動表現を古代ギリシアの哲学者アリストテレスの視点から人間の魂の観照(テオーレイン)というみかたで考察することにした。
 そのことの前提にプラトンの『国家』の読みこみによって魂の在り方の考え方をとらえなおすことは無為なことではないであろう。
 そして、カントの哲学書の中でも卓越した理性の批判書である『純粋理性批判』を精読することによって<空間・音楽・現存在(生命)>の在り方の考察を着実にすすめていきたい。
 そのうえで、フッサール現象学の『イデーン』によって身体の<意識の流れ>を厳密に考察して、運動現象を物理学的なものとはちがった視点から考察し記述する方法をまさぐっていきたい。
 私が現在わからないことはハイデガーにおける現象学の考え方とフッサールにおける現象学の考えかたの違いである。この問題は、ハイデガー全集の現象学についてのべている著作を朗読することによって考察しようと思う。
ハイデガーの思想にふれることは無為なことではない。なぜならば、ハイデガーほどアリストテレスを自己の思索に導入した思想家は現在のところこの惑星に存在しないためである。

 西田哲学を運動表現の理論に生かすことについては主として西田幾多郎の著作である『思索と体験』と『働くものから見るものへ』を5回朗読することによって考えていきたい。たぶん、フッサール現象学やカント哲学の視点の押さえ方もみえてくるはずである。

 <純粋経験>についてはマルセル・プルーストの『失われた時を求めて』をゆっくり着実によみこむことによってウィリアム・ジェイムズの考えている<純粋経験>と西田幾多郎が考えている<純粋経験>についてのちがいを私なりに芸術体験とマルセル・プルーストの『失われた時を求めて』のよみこみによって考察していきたい。