データ飛ぶ

「運動現象と純粋経験」の論文を必死で実家で執筆したにもかかわらず、下宿でフラッシュ・メモリをひらいてみると「空」であった。かなり複雑な文体で複雑な内容をかいて魂を削ったのにがっかりである。私は記憶力が弱く思い出すことはわずかであるが、かじょうがきで要点をかいておく。

西田幾多郎記念哲学館に訪れて京都あるいは東京の目黒におこさまからおとしよりまで気軽に立ち寄れる哲学カフェをこしらえるイデアを想起した。

☆西田哲学と京都学派の思索から「純粋経験」とは何かを明確にし、運動現象について論証していく。

クラシック・バレエにおいて「他者の動きかた」を模倣するだけでは「自己の動きかた」にはなりえない。
しかし、その前提として振付家の「他者のうごきかた」を自己が模倣することは大切なことである。
バイオリンの演奏についても同じことがいえる音楽の模倣行為については木村敏氏の『あいだ』という著書から引用する。

☆「自己のうごきかた」は音楽に影響される。自己の<意識の流れ>と<音楽の流れ>を調和することが舞踊家にはもとめられる。
しかし、舞踊家が音楽につられて動いているとは筆者はどうも思えない。ここは考察の余地がある。

体操競技選手はわざを「魅せる」という目的だが、クラシック・バレエ舞踊家は振り付けを物語にそって「演じる」というちがいがある。体操選手が表現力をつけるためにクラシック・バレエ舞踊家の「動きかた」を模倣することはあっても、クラシック・バレエ舞踊家が体操選手の「動きかた」を模倣することはない。なぜなら、体操競技は採点競技であり、クラシック・バレエは絵画と同様に芸術だからである。

ユング心理学を源泉にアニマ・アニムスの概念をクラシック・バレエのせかいでも適応ができる。
双方とも第二段階のアニマに照準が絞られている。そうでなければ演じることは出来まい。

舞踊家は♪レヴェルで動きをとらえている。楽譜の解釈がおこなわなければクラシック・バレエの演目を踊ることは出来ない。
♪で自己の「場所」を規定し回転系や跳躍系の振り付けをおこなっている。振り付けには物語がしみこんでいるのでしみこまれた物語を観照者にいかにしてつたえるかが問題となる。それは熟練舞踊家や若き舞踊家にかぎられない。「人生の境涯」が振り付けに醸し出でくるのである。観照者のうけとりかたによってその解釈はさまざまである。