京都の不可思議生活

 私は京都の「場所」がもつ不可思議な性質を考えるだけでくらくらする。ヴァイオリンの教室に吸い込まれ、バレエ教室にすいこまれている。大学の先生は「いってらっしゃいませの文化」と理性にのっとって評価してくれた。「いってらっしゃいませの文化」は主観と客観があらわれる「間主観性」の文化といえるであろう。エドムント・フッサールの唱えた概念であるが、その概念を西田幾多郎がどのようにとらえそれを芸術の世界で論証していったのかが現在の私の関心のポイントである。
 主観と客観を厳密にとらえるならば、カント哲学の世界に回帰しなければならない。そうでなければ、伝承の地平線に下ろすことができないのである。
 体操競技におけるわざは厳密に規定されており、大会の試技においてつま先が曲がっていただけで減点の対象となりえるとどうように哲学の言葉や概念の規定も厳密である。このことを応用してバレエやヴァイオリンの繊細な動き方の規定を概念と身体で表象しえることが今後の「京都の不可思議生活」の最大のテーゼであろう。
 
 大学院に進学することは完璧にあきらめている。なぜならば、語学ができないためである。英語力は現代の中学生よりも劣っている。大学院に進学するためにはドイツ語と英語の運用能力および基本的な西洋哲学史の知識と西洋哲学の源流にのっとった哲学の論理的な文章表現能力を決められた制限時間内に最大限に発揮しなければならない。その苦悩は筆舌につくしがたい。
 「卒業論文は手書きで4000字の原稿を埋める腕力があれば書ける」と或る大学教授が申していたが、私はそのことをいまだに経験していないので判りかねる。

 英語の論理的思考が理解できなければ、今後の学習に差しさわりが発生する。プラトンおよびアリストテレスの主な文献はすべて英米圏の国々で翻訳されており、倫理学を考察する際にその文献を読解する能力がなければ、正しくこうさつしていくことができないためである。そのハードルを越えなければ、その次のロックやヒュームなどの細やかな倫理学の概念を租借していくことは困難をきわめていくであろう。
 オックスブリッジの大学では世界の中でプラトンの研究がもっともすぐれている。これからの研究成果はドイツと日本とイギリスの間で緩やかながらも熾烈な研究競争がはじまると予想される。我が大学の恩師がそのことを示唆する発言をしたが、何故私にそのことを告げたのかいまだにわからない。なぜならば、私は研究者としての道を閉ざされているのである。
第一に単位を修得していない。
第二にお金を稼いでいない。
第三に社会性がきわめて乏しい。
この三点に私自身が精神的に追い詰められている。

そしてギリシア世界の概念である知恵(エピステーメー)、技術(テクネー)、正義(ディカイシオネー)が私の身体にも精神にも完全に欠けている。
アリストテレスによれば
医術の目的は健康であり
造船術の目的は船をこしらえることであり
統帥術の目的は勝利であり
家政術の目的は富である

そのおのおのの技術において目的は技術に従属しておりまたその逆もいえるわけである。

このなかで統帥術に関しては近代における最大の政治哲学者であるジョン・ロックが『統治論』(Two Treats Governments)において聖書を科学的に分析することによってあるべき統治のしかたにおいて誠実な論証がなされているので参照されたい。このロックの統治論の概念は芸術を司る者にとっても有益なものとなるとおもわれる。
 とくにロックは医者の父をもっており経験なピューリタンの家庭にそだったためにその芸術性は科学性に裏づけられており、政治における芸術性は芸術行為の統治においても十分に妥当とおもわれる。
 オックスフォードにおいて哲学思想に親しんだジョンロックがアリストテレスの思想に親しんだことは十分推理できることと思われるこのことから上記のつながりまったくないとは断言できない。