「運動現象と純粋経験」メモ②

 筆者は京都におけるバレエの体験で運動現象について考えるようになった。クラシック・バレエは身体の<生き生きとした動き>(ベルグソンの思想)で表現される「芸術」である。筆者は西田幾多郎とウィリアム・ジェームズの<純粋経験>の違いを知るためにバレエの稽古において筆者自身が<眼鏡をはずす>という行為によって先輩バレリーナの<生き生きとした動き>を見つめることにした。
 ウィリアム・ジェームズは『純粋経験の哲学』を書くときにマルセル・プルーストの『失われた時を求めて』などの文学作品を精密に読解した。特にマルセル・プルーストの『失われた時を求めて』は<意識の流れ>を考察する上で大きな源泉になると筆者は考えている。
 筆者が<眼鏡をはずす>という行為からあらわれてきたことは以下の三点である。

フッサール現象学における
zu den sahean selpst! 「事象そのものへ!」というイデア
身体で知ることができた。

クラシック・バレエにおける<美しさ>は表現でもあり表出でもある

③スポーツ運動学の鼻祖akitomo kaneko先生の<身体知>の概念を①、②を通して
間接的に<私の身体>によって知ることができた。

 西田幾多郎の『思索と体験』のなかにはベルグソンの純粋持続に関する論文がある。筆者はウィリアム・ジェームズの<純粋経験>と西田幾多郎の<純粋経験>を比較しながらも、ベルグソンにおける<純粋持続>の概念も<身体の動きかた>とその<美しさ>という視点から今後考察していきたい。

 さて、ここで筆者が考える「運動現象」とはいったいなんであろうか。<意識の流れ>は物理学の世界のカテゴリーのなかの流体力学の世界に共通するものがある、と筆者は考察する。なぜならば、クラシック・バレエにおいて<動きの連続性>(パースの思想)はすべてが流体力学の世界で論証することが可能なためである。しかし、これはユーグリッド幾何学的な世界の<美しさ>である。そこに人間は<美しさ>を感じることもあれば、そうではないと考える人間もいる。
 <意識の流れ>は文学作品特にマルセル・プルーストの『失われた時を求めて』をよむことで筆者が想起したことが原体験となってクラシックバレエの運動の魂の観照の時におおきな果実となるとおもわれる。ここにフッサール現象学の『イデーン』おいても<意識の流れ>が考察することができるが、まだ筆者にはわからない。